年を取ってくると活動力が減退する。体力の低下と気力の低下である。これは自然の理であるので不思議ではない。しかし活動力、体力、気力は人によって違いがある。違いのあるのには何か理由があるはずである。
武道を嗜んでいるのに年を取って活動力が減退するのは問題である。武道は年を取れば取るほど強く、上手くならなければならないからである。もし、年を取っていくと弱くなるなら、年を取っての修業に意味がなくなるし、やっている者として面白くない。80,90才と年を取って若者をちょちょいがちょいと技を効かするから面白いのである。事実、84才の今の方が、若かった頃よりも力が出ているし、今後、更に力がつくと確信しているのである。
100才まで生きて、更に精進できるかどうかは自身がないが、年を取っていっても日々、年々上達したいと思っているし、上達するようにならなければならないと思っている。
それが何故可能かというと、年を取ることによって減退する体力と気力を減退しないようにしたり、それを補えばいいからである。例えば、体力が衰えるということは筋肉や骨、関節が老化することである。つまり、授かった肉体が老化するということである。これは自然の理である。年を取ってきたらこの老化していく肉体だけに頼るのではなく、これに変わるもの、しかも肉体的体力より強力なものに変えていくのである。それは自分以外の力である。合気道的に云えば宇宙の力、天地自然の力、神の力等である。天地の気、潮の干満の力、天の叢雲九鬼さむはら竜王、伊邪那美神の力等である。合気道の技の錬磨や禊で身につければいい。これこそが高齢者の修業であろう。
気力に関しては、高齢者になっても衰えるものではない。若者より強力になるはずである。高齢者は長年生きてきたわけだから、いろいろな事に挑戦し、試練を経て若者とは比べられないように気力が充実しているものである。
体力と気力が年を取っても若い時よりも強力になる可能性があることはわかったであろう。
さて活動力である。体力と気力が減退せず、増大するのであれば活動力も減退しないはずである。
それでは活動力とは何かを定義しなければならないだろう。私の活動力とは、勿論、合気道を中心とした独善的な解釈であり、合気道が上達するため、地上楽園のための定義である。簡単に言えば、積極的に動くことである。思ったら迷ったり悩んだりせずに行動することである。年を取った事を理由に動かなくなるのではなく、積極的にそれにぶつかっていくのである。これをせずに活動力が失せるのが老人と見ている。これをやりたいというのは己の心と肉体の希望であるわけだから、その行動を起こさないのは己の心と体に失礼ということになる。そうすると体も心もこの老人を見限ってしまい、ますます老化することになる。
それでは活動力を減退させないにはどうすればいいのかということになる。それは挑戦であると考える。これまでもいろいろな事に挑戦してきたお蔭で合気道を続けてこられたし、いろいろな経験を積み重ねてき、人生を享受させて貰っている。活動力のお蔭である。これからも挑戦を続ければ、活動力のお蔭でいい人生、つまり合気道の人生と高齢者としての人生を享受できるものと確信している。
年を取っても挑戦し続けようと考えている。挑戦ほど活動力を増強し、若々しい動きと考えを生み出すものはないと考える。
挑戦には小さいものから大きな挑戦があり、その組み合わせの挑戦になるはずである。例えば、明日は5時に起きよう、今日はこの技に挑戦してみよう等との小さな挑戦や論文を1000回書いてみよう、合気道の修業をしよう等の大きな挑戦である。挑戦が無くなったら本当の高齢者、老人になってしまうだろう。若者にも引けを取らないためにも挑戦し続けなければならない。
高齢者のキーワードは挑戦である。