【第997回】 気と魂と霊
気というものが分かってきて気で技がつかえるようになってきたようなので、いよいよ次の魂の次元に入ろうと努めているところである。何もわからないので大先生の教えを勉強し、先人たちの英知に学んでいるところである。
気と同じように、大胆に予想し、想像、仮定するしかないのである。
そこで先ず、気と魂の関係と違いを知らなければならないと思い研究した。そして次のようなことが分かってきた。
- 魂は息と気と繋がり、息と気は体と繋がっている、そして
- 魂は霊の水火と繋がっている
- 因みに、気は息と繋がっている
つまり 体 − 息 − 気 − 魂 − 霊 と繋がっている事になる。
体と魂を繋いでいるのは息と気であり、霊と魂を繋いでいるのは水火である。
霊の水火は魂に無意識、無作為、自然に働かせている。心臓や血管など縮まったり、膨らんだり・・・と動いている。魂を通してである。
人が生きているのは息をしていることと心臓が動いているからである。もし、息が止まり心臓が止まれば死んでしまう事になる。故に、魂は“命”“たましい”ということになる。
合気道の観点で見れば、
- 体 − 魂 − 霊となり、体と魂を繋いでいるのが息・気であり、魂と霊を繋いでいるのが霊の水火であると感得する。
体 − (息・気)− 魂 − (水火)− 霊
- 霊が与えるものは二つある。四魂と布斗麻邇御霊の水火である。
四魂は奇魂、荒魂、和魂、幸魂である。この四魂で体を三元八力でつかうのである。形で表わせば △ ○ □ となる。
それでは霊が与える四魂はどのように働くかを合気道の技で見てみると次のようになるだろう。
奇魂 |
荒魂 |
和魂 |
幸魂 |
この技にしようと思う |
その技を試みる、挑む |
相手と結ぶ、一体化する |
一体化して収まる、技が決まる |
勿論、技を△○□に収めることもできる。△に入身して、〇く捌き、□に収めるのである。
布斗麻邇御霊の水火は、







の水火(・○)である。口中の息づかいと体中の水火で技と体をつかうのである。
ここで気と魂と霊の形が揃ったので並べてみる。
気: | ━ 十
魂: △ ○ □
霊: ・ ○ ・
因みにこれらの言霊は、
気: イクムスビ
霊: あおうえい
これがこれまで考えた「気と魂と霊」であるが、宗教家や学者は次のように言っているので、参考までに載せることにする。
- ’霊’と言うことばは、人間の非物質的な部分にだけ使われます。人間は霊を持っていますが、霊ではありません。
- 人間の中で、霊は神との親しい関係を持つことを可能にする 要素なのです。’霊’という言葉が使われている時は、必ず、魂も含めて人間の非物質的な部分のことを言うのです。
- ’魂’ということばは、非物質的な部分だけではなく、物質的な部分をも指して使われています。人が’霊’を持っているのとは違って、人が 魂なのです。その最も基本的な意味では、’魂’ とは、’いのち’なのです。
- ’魂’は、人のこの世との関係において、横の見方です。‘霊’は神との縦の関係においての見方なのです。 両方とも人間の非物質的な部分を指すのですが、’霊’の部分だけが人の神との歩みを指すのだと言うことを理解するのは重要です。’魂’とは、物質的、非物質的な部分も含めて、人のこの世における歩みのことを言います。
- ペンバーは各々の機能を明快に説明しています。「我々は、体を感覚意識、魂を自己意識、霊を神意識と称することができよう」。また彼は言います、体は「我々に五感を与え」、魂は「現在の存在状態において我々を助ける知性と、感覚から生じる感情を与える」。一方、霊は「神に直接由来する」最も高度な部分であり、「霊によってのみ、我々は神を理解し、礼拝することができる」。
- マーレー博士はまた、「霊は我々が神を意識する座であり、魂は我々が自己を意識する座であり、体は我々が世界を意識する座である。霊の中には神が宿っており、魂の中には自己、体の中には感覚が宿っている」と述べています。
- 魂は、霊的な世界に対して開かれている「霊」と、自然や感覚という外側の世界に対して開かれている「体」との間に位置する人格的実体であり、どちらの世界が人全体を支配統制するのかを選択する力を持っています。
残念ながら完全には理解できていないし、技でも表わせない。これからの挑戦のひとつということになる。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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