【第996回】 魂はたましい

魂の学びである合気道を精進しようと、これまで息の探究、そして気の探究をしてきた。気を生み、つかうためには息を身につけるとあったように、魂を身につけるには気を身につけることが必須であると思っていた。
お陰で気がようやく身についたが、それと同時に魂への段階を登り始めた。
息と気と魂は一連の関係と繋がりがあるが、次元と段階が違っており、下位次元から上位次元に移っていくと考える。故に、気の次元にくれば、次の上位の魂の次元に進むのは当然だろう。もし、気の次元のままで留まっていれば天罰が下るはずである。

気がつかえるようになった。そして気の働きは凝結力と引力であることが分かった。相手と手が接すると、気で相手を凝結させ、ひっつけてしまうのである。しかしこれだけでは合気道の技にならない。技にするためには、この凝結し、引っ付けた手を出したり回したり動かさなければならない。この凝結し、引っ付いた手、つまりその働きをしている気を動かすものが要る事になる。そしてそれこそが「魂」であろうと考えるのである。どういうことなのかそれをこれから説明する。

フトマニ古事記を世に出した山口志道の『水穂伝』に、霊水タマシヒ(たましい)、気、魂、息、神の説明がある。
人間ヒトの胎内にミツあり。是を霊水タマシヒという。イキともいう。タマシイと唱ふるは躰にして息と唱るは用なり。」とある。また、「天地の間に眼に見えさるミツあり。是をとも云う。神と唱ふるは躰にして水火イキと唱るは用なり。」
ここから分かってくることは、

ここから息でもある気を用で働かすのは霊水タマシヒ(たましい)ということになる。霊水タマシヒ(たましい)とはタマシイである。タマシイがどのように用の気を働かすかというと、一霊四魂三元八力の四魂である奇霊、荒霊、和霊、幸霊であり、△○□である。気を激しく、柔らかくや△や四角につかうわけである。
更に気を布斗麻邇御霊の水火の形でつかう事になる。この布斗麻邇御霊と四魂で気が動くことになるわけである。

これまで魂を“こん“にこだわってきたので近づけなかったように思う。
”たましい“と置き換えれば、魂より身近になり魂の学びも分かり易い。
まず、思うのは“たましい”とは心のようだ。しかし心には俗世で一般的に生きていくための心と一元の大神、一霊四魂の一霊に繋がる真の心があると考えるが、“たましい”とは後者の真の心である。従って、魂の学びとは“たましい”の学びであり、一元の大神様の進めている宇宙天国建設への生成化育を邪魔しないで、お手伝いできるようにする事を学ぶという事になるだろう。そのために、合気道の修業を通して真善美の探究をしているわけだし、気育知育徳育体育常識の涵養に励んでいるわけである。

これでようやく魂の次元に辿りついたようであるので、気の技から魂の技に換えて生きたいと思っているところである。


参考文献 『水穂伝』(山口志道著、岡本天明訳 八幡書店)