長年にわたって悩まされてきた“気”にようやく向き合う事ができるようになり、また、その気に働いて貰えるようになった。それまでの魄の技とは異質であり大きな違いがある事もわかってきた。物理的、肉体主動の魄の技は日常生活や一般社会の力づかい、動き、技の範疇にあり、別次元にあるべく合気の技という気持ちにはなれず、悶々としていたのが、ようやく合気道を嗜んでいるという気持ちになれたのである。
それでは何故、“気”を感じ、つかえるようになったのか、また、どうしてそれが“気”であることがわかったのかを改めて記す。
一つは、大先生の教えである。大先生の教えである『合気神髄』『武産合気』を何度も読んでいくとそこに自分が求めている問題、課題のヒントが現われてくるのである。これまで多くの難問にヒントを与え、解消してくれたのである。しかしそのヒントは己のレベルに依るので、レベルが低くければその程度のことしか分からないのである。その意味で“気”はレベルが高くなければ分からないようである。だから苦労したわけである。
それでは“気”が大先生の教えから具体的にどうして分かったのかである。大先生は“気”をこれが“気”であり、こんな形であるとは教えておられないが、“気”の働き、機能を教えて下さっている。その働きとは凝結力と引力である。“気”は相手を凝結させ、そしてひっつけてしまう働きがあるというのである。つまり、触れた相手が凝結し、ひっついて離れなくなればそこに“気”があり、働いている事になるわけである。そしてそこに生まれ、働いているモノこそ“気”ということになるわけである。故に、“気”は他人に見せる事はできないが、その働きを見せる事はできるのである。
二つ目は、気から魂の次元に入って、“気”の次元が見えるようになったからである。大先生の教えにもあるように、下から上は見えないが、上から下のモノはよく見えるのである。魄や息の次元からは気が見えなかったが、気の次元からは魄や息の次元がよく見えるのである。そしてまた魂の次元からは気の次元がよく見えるのである。いい事、悪い事、直すべき事などがみえるようになるわけである。
魂の次元から見た気の次元の稽古はまだ不完全であるということが見えるのである。気で凝結と引力で相手と一体化しての技づかいであり、これこそ合気道の技と思われたが、まだ完全ではなく、何かを加えたり、補充・修正が必要であると見えるのである。
それは気を出せばいいということではなく、気を体の表に流し、技は体の表で掛けなければならないということである。
初期の“気”は息イクムスビなどの十字から生み、十字の体捌きで気の技をつかった。しかしこの気は主に腹を中心に生まれ、つかう気となるので“陰の気”ということになる。体の裏の気だからである。言ってみれば、魄に近い気である。この気力を大先生は魄力であるといわれているようである。当時は気力が魄力だとは信じたくなかったがこれでわかったのである。実際にこの陰の気で技を掛けても大分大きな力が出るが、自分も相手も心から納得できない力、技なのである。要改善だったのである。
陰の気があれば、陽の気があるはずである。体の表からの気である。
この陽の気で技をつかうと、凝結力、引力は抜群でこれぞ正しく合気の技、動きであると実感できるのである。触れているだけで相手を自在に制し、導く事ができるのである。技を掛けている方も受けを取っている方も、そして周りで見ている方もこれこそが合気の技づかいであると思えるのである。
しかし、陽の気を出すためにはいろいろな準備、体づかいをしなければならない。例えば、