合気道の技を掛ける手は自然、無作為で動くようにならなければならない。そしてそのためには肩が貫けなければならいと言ってきた。肩が貫けなければ手は動かないし、技にならないのである。肩が貫けるとは、肩の下にぶら下がっている手・腕を肩の上にのせることであると自身では言っている。通常の手・腕は肩からぶら下がっているので、手を上げても肩にぶつかってしまいそれ以上は上がらない。この肩のぶつかりから解放するのが肩を貫くことである。
合気道の技をつかう際、この肩を貫くから始めなければならないことになる。それが布斗麻邇御霊の最初のの働きである。息を吐きながら腹中を拡げ気を満たし、息を吐きながら腹を萎めると手が肩の上にのり、肩が貫けるのである。
故に合気道の技をつかう際は、まず必ず、からはじめなければならないことになる。
は難しい息づかいであるようだが、日常やっている息づかいと動作がある。それは深呼吸である。息を大きく吸って吐く呼吸である。深呼吸と思ってやれば肩は貫けるはずである。
肩が貫けた手は自然に上がるのだから軽いわけだが、重く感じる。以前書いたように、風呂に入って、肩を貫いた手で湯面を押すと水の圧力を感じ、湯中では手が湯に浮く感じがつかめる。肩が貫けた手は水に浮き、水中で動いているように感じる。
これまでは空気中で技をつかってきたわけだが、水中での技づかいとなったわけである。手は水の浮力と抵抗でつかうことになる。手は水に浮くように、そして水を切るように返すことになる。親指を体(支点)で小指側を用で返すのである。空気中では手を上手く返すことが難しかったがこれで手の返しの要領がわかる。
水中で動いているようになり、水の浮力と抵抗が空気よりあるので、粘りと重さを感じることになる。別世界、別次元の世界、つまり別次元の稽古ということになる。顕界、現界から幽界、水世界の禊であり、稽古である。
この水中の稽古、水中の禊は私の独りよがりのものではない。大先生の教えの中にある。大先生は、伊邪那岐神の筑紫の日向の橘の小戸の阿波技原の禊場の箇所で次のように教えておられる。
「そこで身にしみこんだところの・・・。この水の上にそそぎたまうときに上津綿津見神、上筒之男命、また中津綿津見神、中筒之男命、底津綿津見神、底筒之男命、と。こういうように三段禊を初めている。水中においての禊で、この水の世界にも顕幽神の三界がある。顕幽神というのは、つまり顕界は、この世の世界、また幽界は仏教の世界、神界は魂の世界。この三つの世界を建てかえ、立て直しをしなければいけない。(合気神髄p.138)」
このように水中でも禊をする、つまり技を錬磨しなければならないという教えである。三段禊はまだよく分からないが、水中での禊が必須であるという事は明確である。
そして、この水中での技づかいのためには、まず、肩を貫かなければならないということも重要なことなのである。