「合気道は魂の学びである」とか、「合気はすべて気によるのであります。
合気は充分気を知らねばならない」とか教えられているので、これまで魂や気を重視し、魄を疎かにしてきてしまった。しかし修業が進んでくると魄も大事であると痛感するようになったのである。
そこで大先生の教えを改めて見直してみると次のことが分かった。一つは、大先生は魄が大事でないとは一言も言われていない事、二つ目は、魄も大事にしなければならないと言われていることである。魄を大事に扱いながら、その魄を土台にして魂にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になるということである。つまり土台になる魄を大事に扱えということなのである。
魄には幾つかの意味がある。魄の対照との意味である。例えば、○魄と魂、体(魄)と精神・心 ○土台(魄)と上・表(気・魂)○裏(体)と表(用)等である。
また、魄の土台を大事にするには次の二つの意味があるだろう。一つは、魄の土台をしっかりとつくり上げる事、頑強な土台の魄にする事、二つ目は、魄の土台を大事に扱う、上手くつかうという事である。
魄の体の土台となる部分には手の平、足の裏、腹・胸、顔面があると思うが、今最も重視しているのは手の平である。手の平をしっかり張って頑強な土台にするのである。合気道的に云えば、手の平を凝結するということである。鋼の手のようにするわけである。
この凝結した手の平を土台として技をつかのである。手の平が十分に凝結すると手の甲に気・魂が生まれ、手の平(土台)を上げたり、下げたり、円く巡らせたりする。手の平の土台は土台として動かさない。息を吐く、息を引くの水火で動くのである。これが魂の働きではないかと感得している。
土台を先に動かしてはならない。魄の力になり、相手に不快な思いをさせるから争いになってしまうし、大きな力も出ない。また、土台がしっかりしていなかったり、つかえなければいい技にならない。つまり、気も魂も生まれず、働いてくれないのである。
土台がしっかりするとは、手の平だけでなく、足底、体幹(腹、胸)、顔の土台も凝結し、強固に使われなければならないという事である。つまり、体幹、足底、顔を弛めたり、捩じったりしないで、鋼鉄のような土台としてつかわなければならないということである。力を抜くなどもってのほかなのである。