【第990回】 人間とはいつまでも進歩できるもの

朝日新聞の「天声人語」(2025.3.21)でスペインの画家であるジュアン・ミロ(1893-1983)を取り上げ、彼の業績を簡単に紹介し、最後に「90年の生涯でミロが残した多様な作品に、人間とはいつまでも進歩できるものなのだと前向きな気分になった。」と締めくくっていた。筆者は東京都美術館で開催中のミロ展を観てきたというので、それを確かめに行って来た。

作品はほぼ制作年代順に展示されて、1910−1920年(カタルーニャからパリへ)、1920年代(パリ シュルレアリスムの熱狂)、1930−1946年(戦禍を逃れて)、1946−1960年(アメリカでの名声)、1970年代(新たな挑戦)と区分展示されていた。展示点数は100点以上であったが、ミロの最後の作品「涙の微笑」(1973)が一番気に入った。

涙の微笑
ミロは年代毎に画風や描くテーマが変わっているわけだが、天声人語にあったように、年をとるほどに進歩している事がよくわかる。通常、人は年を取れば体力も精神力も技術力も衰えるものだが、ミロは年と共にどんどん進歩していたのである。最後の作品が最高のものと感じたのはそのためだろう。天声人語はそれが人に希望を与えると称えたのである。
因みに、ミロが進歩したことの例に、彼は目に見えるものを描くことから、目に見えない世界を描く次元に入ったことである。合気道で謂う、顕界から幽界へである。彼が目に見えた自画像や風景を我々見る側にもそう見える顕界の絵から、我々の目にはそう見えない幽界の絵に変わったのである。それが分かるのは、ミロの次の言葉である。「誰もが木々や山々の大きな地ばかりを求め、それを描こうとしますが、草の葉や小さな草野音楽を聞くこともなく、渓谷の小さな石に注意を払うこともありません − それはとても魅惑的なのに。」と言っているのです。

合気道でも年を取ると体力、精力、持続力などが衰えてくる。多くの稽古人はその衰えによって稽古を止める。また、若い力強い相手を制することができなくなり、力で抑えられて動かなくなり、力の限界と稽古の限界を感じるのだろう。勿体ない話しである。
ミロの例ではないが、人はいつまでも進歩できるはずである。大先生もそうであったし、武道、芸道、学問、宗教、芸術家等などの名人、達人たちは何時までも進歩し続けてきたので名人、達人、上手と言われるようになったわけである。勿論只年をとればいいということではない。いつまでも進歩し続けるためには挑戦し続けなければならない。挑戦なくして進歩はない。

合気道は有難いことにいつまでも進歩できるものであるようだ。スポーツはある程度までの進歩はできるが、年を取っての進歩は難しいだろう。特に、若者に年を取って勝つのは段々不可能になってくるはずである。そこへいくと合気道は、年を取ればとるほど進歩できる。真の力が強くなるし、技と体を自由につかえるようになるし、知恵や知識が豊富になり、自然や宇宙と仲良くなり、その力をお借りできるようになるのである。これは若い内は出来ないものである。マンガではないが、よぼよぼの貧相な老人が元気な若者をちょちょいがちょいと投げ飛ばせるのも可能なのである。

もし、合気道の修業で年を取って進歩できなければ、修業を続けても意味がなくなる。そこの時点が頂点であり、後は下降するだけであるからである。若い時の頂点で止めた方がいい。それが嫌なら、進歩し続けることである。挑戦し続ける事である。ミロに見習いたいものである。


参考文献 朝日新聞「天声人語」(2025.3.21)