【第99回】 悟 り

人は誰でも悟りたいと思うものだ。禅の僧侶だけでなく、一般人も煩悩から解放され、悟りたいと思っている。また、合気道などの武道を志すものも、悟りたいと修行をしている。

悟りとは、「知らなかったことを知ること、真理を会得すること、人が到達することの出来る最高の状態に行き着くこと」等という意味であり、けっこう幅が広いようだ。悟りという言葉は宗教の影響が強いようで、その意味の違いは宗教・宗派の違いからきていると言われる。

「悟り」は、段階的な手順を経て悟る場合と、瞬時に悟る場合がある。仏教の一つの支流である中国禅にも段階的な悟り(漸悟)を説く派である北方禅と、突然の悟り(頓悟)を説く派である南方禅に分かれた時期があったと言われるが、北方禅は先に廃れたため、日本に伝わるのは、突然の悟りを説く南方禅であるという。また、禅では悟りと大悟が区別されている。悟りが段階的に真理を会得するのと対照的に、大悟は通常の悟りとは次元の違う悟りであり、光明とも呼ばれる。この悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることからそう呼ばれるという。

合気道の修行においては、この両方の悟りを求めなければならないようである。小さな悟りを段階的に確実に得て、だんだん大きな悟りを得、最終的な悟り大悟、光明を得るということであろう。

開祖は、「この道は、悟りから悟りへと、体に美しい精神を建設することが出来る。」(合気道新聞) 「自分一人でも開眼すれば、宇宙の気はみな悉く自分一人に、自然に吸収されて来るのです。そして悟るべきものはすべて悟るのであります。タカアマハラも自分にあるのであります。天や地をさがしてもタカアマハラはありません。それが自己のうちにあることを悟ることであります。タカアマハラは造化機関であり、人もまた同じ素質、同じめぐり、動きをもっている造化機関なのであります。タカアマハラを天や地に尋ね求めるより、まず自己に尋ね求めることです。宇宙のいとなみが自己のうちにあるのを観得するのが真の武道なのであります。」 「合気道は天地の真理を悟らなければならない。さらに天地人和合の理を悟ることです。宇宙の真理のごとくは、技に表すことができます」等といわれ、このように悟りという言葉が使われている。

さらに、「『天地人和楽の道の合気道 大海原に生けるやまびこ』この山彦の道がわかれば合気道は卒業であります。」とも言われている。「山彦の道」がわかれば卒業(大悟)したと言われるように、開祖も「悟り」には小さい悟りから大きい悟り(大悟、光明)があるといわれている。

開祖の悟りの道歌:
 合気とは 筆や口にはつくされず 言ぶれせずに 悟り行へ
 古より 文武の道は両輪と 稽古の徳に 身魂悟り
 つるぎ技 筆や口にはつくされず 言ぶれせずに 悟り行へ

光明を見られるよう、小さな悟りを段階的に、着実に得るよう修行し、光明がいつきてもいいように準備していかなければならない。