今は物質文明の世界である。権力やお金や物の世界であり、物が幅を利かせ、牛耳っている世界である。これを合気道では魄の世界という。
魄の世界は見えるモノを重視し、モノを信用する世界である。
合気道に於いても、初めは目に見えるモノやコトから稽古を始める。しかし、目に見えるモノだけに頼っていると上達はそこで止まってしまう。上達するには、目に見えないモノが大事になってくるのである。目に見えない次元での稽古に入る事である。合気道ではこれを顕界(現界)から幽界、神界への稽古というはずである。
合気道でも社会でも、目に見えないが、何か目には見えない何かがあると思っている。その典型的なモノは、合気道に於ける“気”と一般社会での“神”であろう。結論から言うと、私個人は“気”があり、“神”もあると思っている。つまり、気の存在も神の存在も認めているということである。
合気道は気で技と体をつかうと教わってきたわけだが、その“気”なるモノを目で見た事はない。しかし、最近ようやく“気”がある事が確信できた。では“気”を見たのかというとそうではない。“気”は残念ながら目には見えないし、人に見せる事はできない。それでは何故、それが“気”であると言う事ができるのかということになる。
“気”の働きである。“気“の働きがあれば、そこに”気“はあることになる。”気“の働きは分かっている。合気道の開祖である植芝盛平翁が、我々後進に次のように教えておられるのである。”気”は強力な引力と凝結力をもち、相手を引っ付ける力と相手と自分を凝結する働きがあるというのである。
従って、相対稽古で相手を凝結させ、そして相手をくっ付けてしまえば、そこには“気”が働いており、“気”が生じている事になるわけである。逆に言えば、相手を凝結もくっつけることもできなければ“気”の存在は分からない事になる。これが、“気”が合気の世界でも普及しなかったよう大きな要因に思う。故に、“気“は意外と容易に身につけ、つかうことができるようになると考える。
合気道では“気”は目に見えない厄介なモノだったが、更に“魂”という厄介なものがあるが、“気”と同じようにその働きから、その見えないものを見えるようにすればいいと考えて実践しているところである。
次に“神”である。“神”も目に見えないので、物質文明を謳歌している多くの人は“神”の存在を信じていない、信じられないだろう。
私自身は、前述のように“神”の存在を信じている。その理由は前項の“気”と同じで、“神”は目に見えないが、超人的な働きがあるからである。とても人工的には出来ないような超人的な働きがあり、それは“神”のお蔭であり、仕業であるとしか考えられない働きだからである。大小さまざまな働きがあるが、これは八百万の神の働きと考え、神が存在するとなるわけである。
神の働きとして、合気道では、天之御中主神、高皇産霊神・神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天の村雲九鬼さむはら竜王、須佐之男大神等の働きを大切にしている。これらの神様の働きを己に取り入れて技を練っていくわけだが、これらの働きは合気の技に必須なのである。これらの働きで技と体をつかう際、そこにその超人的な働きをする神が居ると思うのである。そこには目に見えない“神”の存在があることになるわけである。
目に見えないものが見えるようになってきたわけである。更に見えないものを見えるようにしていきたいと思っている。
これも物質文明、魄の世界から遠ざかっていく高齢者への神様のお働きかも知れない。