【第988回】 合気道は禊

前回の第987回「魂のひれぶり」に書いたように、体がひびきを感じるようになると、これまでよく分からなかったことが分かってきたので記すことにする。
それは合気道をはじめた頃からの疑問でもあった。合気道は武道であり、敵に負けないよう、やられないように稽古をしなければならない習い事であると考え稽古をしてきた。要は、少しでも強くなろうとしていたわけである。喩え、合気道は敵を倒すものではないとか勝負に勝つためのモノではないと言われていても、強くならなければ意味がないと思っていた。
勿論、強くなろうと、自分もそうだが、まわりの稽古人もそのように稽古していた。
しかし、大先生は、「合気道は真善美の探究である」とか、「合気道は愛の武道である」とか、「知育、体育、徳育、常識の涵養である」等と頻繁に言われていたのである。強くなりたい、技を覚えたいと稽古していた我々にとっては、何故、大先生は強くなるために関係ないと思われる事をやらなければならないと言われていたのか理解出来なかった。自分だけでなく、先輩方も理解できていなかったように思う。何故、先輩方の事もわかったかというと、大先生のそのような技に関係ない話を有難く聞いておらず、早く稽古をしたいと思っているのがありありと見えていたからである。
全くの罰当たりだったわけである。また、本当に未熟であったのである。合気道で最も大事な事を大先生は我々に教えようとされていたことが稽古人には分からなかったわけである。

体の感覚、体のひびき、そして魂のひれぶり、魂がわかってくると、上述の大先生のお話がいかに重要な教えなのかやっとわかってきたのである。
まず、合気道は魂の学びであるということが理解できるようになる。
これまで書いてきたように、魄の稽古から気の稽古、そして魂の学びへと進む事になったのである。魂によって技が完成へと進むわけである。
次に、魂が生じ、魂が働くためには、魂のひれぶりがなければならない。
そして魂のひれぶりのためには、体がひびきを感じ、また、ひびく体にならなければならないのである。
そして魂のひれぶりを生ずるために心身は清浄であり、人間の根本義である志操、篤実、品行方正を必要とするが、それは真善美を基に保たなければならないし(合気神髄P.110)、また、知育、体育、徳育、常識の涵養が必要なのである。
つまり、合気をするときは、「真善美の探究」「愛」「知育、体育、徳育、常識の涵養」を兼ね備えていなければならない事になり、それらの探究も大事であるということなのである。これを大先生は説かれておられたわけである。
更に、これらを称して大先生は“禊”と言われておられるのだと考える。魄の次元での禊は、滝に打たれて舟こぎ運動をしたり、稽古を汗一杯かいて身を清める事であったが、魂のひれぶりの幽界・神界では心身を至純・至愛、つまり宇宙の営み、一元の神に近づけることであると考える次第である。

合気道は確かに“禊”なのである。