技と体を気でつかうようになるとこれまでと異質の技づかいになる。一つは、相手をくっ付けてしまうようになる事である。相手の手などを掴んでいないのに相手とくっつき離れずに技が決まってしまうのである。言うなれば、人をくっつける人間磁石というところである。
そして相手がくっつくと相手にある現象が起きるのである。それは相手が固まってしまうことである。つまり、大先生の言葉で言えば「凝結」である。これが二つ目である。
因みに、掛けた技が効くためには、技を掛けた相手がつっぱることであり、凝結して固まらなければならないのである。相手の体が技を掛けてもつっぱらずに余裕があれば技にならず、相手に逃げられたり、頑張れたり、反撃されることになる。
ここまでは前にも書いたと思うが、つっぱる、凝結には続きがある。
前述の凝結は、技を掛ける相手を凝結させる事であったが、加えて、己自身も凝結させなければならないということである。技を掛ける際は勿論の事、準備体操の際も体を凝結してやらなければ体操の意味はなくなる。更に、日常生活の動作姿勢も凝結になければならないということである。
今、思い出すと、大先生(下記写真左1と2)も有川先生(3と4)も道場でも道場外の日常生活に於いても体は常に凝結されていた。傍に近づけば弾き飛ばされそうに感じたし、技など掛けても弾き返されてしまうだろうと思ったものだ。
凝結は気でするわけだから、はじめはイクムスビの息づかいで手を縦横縦の十字にし、気を出し、気を手に流し、手に満たして手を凝結させる。これはこれまでやってきたわけだが、これでは手は十分に凝結せず、相手の力に対処できないので更なるものが必要になる。それは布斗麻邇御霊と言霊“あおうえい”である。この水火の形と“あおうえい”で手と体を凝結するのである。布斗麻邇御霊は宇宙を創造し、地球を修理固成したわけだから、地(魄、体、手)は完成のためにしっかり固めることになる。手も体も凝結が完成となるわけだから十分に凝結する必要があるわけである。
また、大神の営みの姿である一霊四魂三元八力の三元は気流・柔・剛であり、気や血などの流体、肉、そして骨と凝結すると考える。故に、凝結とは、気でも血でも、また、肉と骨もすべてが結びつくということでもあると考える。遊びや隙がないということである。上記の写真はそれを教えてくれているだろう。
この最高に凝結した理想的な手が私にはある。それは天竜さんが掴んだ大先生の鉄棒のような手である。見たことはないが、想像は出来る。今はできないが、凝結力がつけば少しづつでも近づいていけるだろうと思っている。