力一杯の稽古に入ってくると相手も力一杯掴んだり、打ってくるようになる。これまで上手く掛けていた技が掛からなくなったり、また、体力や腕力のある相手に遭遇するようになるが、これまでのようには動かせなくなったりする。世間は広く、いろいろな人がいる。多少合気の技がつかえても、技をつかうことなど出来ないどころか、持たれた手を動かすことも出来ない相手もいるのである。
しかし、そのような相手に出会い、稽古をし、そして上手くいかなかったなら感謝である。昔ならおのれ小癪な、覚えておれとなったが今は違う。何故ならば、稽古の意味が分かっているからである。一つは、出来ないから出来るように反省し、考え、試しと出来るように頑張ることになるからである。出来る事ではそれでいいと思い、反省や努力をしないものであり、真剣な稽古に結びつかないからである。二つ目は、出来るようにする努力は必要だが、出来ない事もあるということを知る事である。何でも出来る、出来なければならないとは思わなくなるからである。例えばお相撲さんの朝青龍や尊富士が諸手を掴んできたら、掴まれた手を動かすこと等できないし、体ごと放り上げられてしまうだろう。そうすると諸手取呼吸法など意味がないと思ったり、相撲の方がいいのではないかと思ったりするものだが、合気道がいいとの結論になるのである。その理由は二つある。一つは、合気道の開祖はお相撲さんに掴ませた腕でお相撲さんを天井まで放り投げているのである。つまり、合気道にはお相撲さんを放り投げられる可能性があるという事である。二つ目は、今は出来なくとも、その可能性を追求し、開祖のレベルに少しづつ近づくのが合気道であるということである。
それでは開祖に近づくためにどのような稽古をすればいいのかということになるが、今のところは次のように考えている。