【第980回】 魄に堕せぬようにとは

合気道は武道であることを再認識した。
これまで力や腕力、体力に頼らないよう、相手に争いの心が起きないよう、お互いがウィンウィンになるような稽古を心掛けてきた。長い間続けてきたせいか、宇宙の心、宇宙の営み、自分自身が分かり、合気の技が身についてきた。大先生の教えも大分理解出来るようになった。
しかし、新たな問題が頭をもたげてきた。こちらが精進してきた技を掛けると受けの相手が力一杯で打ったり、掴んだりして技に掛かるまいと抵抗するようになったのである。そうなると一教の手は押えつけられる事になるし、諸手取呼吸法の手も動かなくなる。だが、これは相手が意地悪しているわけでなく、人の本能であり、相手の試みであると感じるので嫌な気持ちにはならない。相手もこちらがこうしたら私がどうするかを知りたいわけである。そしてこれが本来の稽古であると思った。また、はじめは力一杯持たれたり、打たれれば動けばくなり技にならないわけだが、真の稽古はこの出来ないことが出発点であろうとも思う。

問題に直面したときにやるべき事は、これまでやってきた事と大先生の教えに戻ることであることがわかっている。
そしてまず分かった事は、大先生の教えを正しく理解していなかった事ということである。つまり、魄ではなく気や魂を大事し、また魄は気、魂より下であり劣っているという考えになったことである。
しかし、大先生は魄が気、魂より劣っている、大事ではないなどと一言も言われていないどころか、魄を魂と同等に大事にしなければならないと教えておられるのである。例えば、「真の自分のものを生み出す場処である体を大事に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはいけません」である。

更に魄の大切さが確認できて確信できたのは次の教えである。

  1. 「魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である。」(武産合気P.73)
    ここからわかることは、魄は大事で強力であるということである。ただつかいやすいので注意せよという事と魄ではなく魂で技をつかえという事である。魄は駄目だとは言っておられないわけである。
  2. 「だから霊と体を平行し、魂が魄を使うようにならなければならない。まず明るい霊の世界をつくることである。」(武産合気P101)
    ここからも体(魄)は霊(魂)と対等であるということがわかる。平行とは、同等、対等、表裏一体ということである。体(魄)と霊(魂)は優劣がないということである。
しかし、実際には魄と魂の平行化、同等化、一体化は容易ではない。それはこれまでの稽古過程で明瞭である。力を思い切りつかいたくてもつかえないのである。もし力一杯に技(形)を掛けたら受けの相手は確実に反感を覚えるか怪我をするはずである。故に、通常は力を手加減して稽古をすることになるわけである。
それがどう変わっていくかを経験上記す。
まず、稽古の初期段階では魄主体である。魂など知らないわけだし、興味もないから魄だけの技づかいになる。魄>魂=0
次に宇宙の営みを形にした技を追求するようになるわけだが、気や魂を生み、つかえるように目に見えない力の探究となり、魄はどうしても疎かになる。魄<魂である。
そして新たな段階に入る。今度は、魄=魂にしなければならない。
これをどうすればいいかということになる。魄を強力にするために以前のように腕力をつかえば、ただの力みになり、合気道の力ではないから、他の方法でやることになる。これまで見つけ、身につけてきた教えでやることである。例えば、布斗麻邇御霊や息陰陽水火である。これでやれば力一杯できるし、力一杯やることによって魄(体)は更に鍛えられるのである。力は思う存分、思い切りつかう事ができる。更に力(魄)が備わってくると魂が働くようになるようである。これが魄と魂の平行であると感得する。

魄=魂でなく、魄主体になれば過っての柔術になってしまう。合気道ではなくなってしまう。しかし、魄がしっかりしていなければ武道でなくなってしまう。魄は魂の土台であるから強靭、強力、そして柔軟でなければならない。魂の修行も大事だが魄を鍛える事も疎かにしないことである。
「魄に堕せぬように」の教えから魄の重要性がわかったわけであるが、大先生の教えの深淵さも再認識した次第である。