【第978回】 古文と合気道
最近、古文の素晴らしさに気づかされた。きっかけはHNKのテレビ高校講座番組での宇治拾遺物語の一つ「児のそら寝」である。
あらすじは、「むかしむかし、比叡山延暦寺に児(子ども)がいた。ある退屈な夜に僧侶たちが「ぼたもちを作ろう」と提案した。児はその提案を喜んだが、ぼたもちが完成するまでわざわざ起きているのも僧侶たちに悪いと思い、寝たふりをすることにした。そうこうしているうちに、ぼたもちができたようだ。僧侶が児を起こす。だが、ここで起きては寝たふりがバレる。もう一度声をかけられたら起きよう。すると問題発生。ある僧侶が「小さな子どもだから寝てしまったんだよ。起こさないでおこう」と言い出した。このままではおはぎを食べられない。焦った児は、今さら返事をして起き上がる。その不自然極まりない様子を見て、僧侶は(なんだ、寝たふりだったのだな)と気づき、大笑いするのであった。」
原文の書き出しは次のようである。「これも今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに・・・」である。文章はこの調子で軽快に続く。
この古文、とりわけ書き出しに感銘を受けたのだがその理由である。整理して見ると次のようになる。
- 文が簡潔である。無駄がなく、美しい事である。最低の語で、これ以上省略することも出来ないし、加える必要もなく感じる事である。
昔習った「竹取物語」「徒然草」「方丈記」等を思い出したが同じである。
- 時間を自由に移動していることである。今から昔にトランスポ―テ―ションしてしまっているのである。この今は昔の移動法に類似の言葉が「昔むかし」である。「昔」だけでなく、「昔むかし」で移動できるのである。
- 空間も自由に移動していることである。今あるところから比叡の山に移動しているのである。今の自分のいるところから好きな所へ自在に移動できるのである。
高校時代は古文の素晴らしさに気がつくどころか、現代社会で役立たなそうな古文など何故やらなければならないのかと思って、勉強もしなかったし忘れていた。それが何故いまになって古文に興味を持ったのかと、自分でも驚いているのである。
その答えの一つは、やはり合気道の修業のお蔭であると思う。つまり、古文は合気道に似ているというより、非常に近しいと思うのである。
まず、上記の古文の1.に対して、合気道の技づかいも簡潔で、無駄がなく、美しくなければならない。
古文の2.での時間の移動は、一つは、合気道に於いての時間も過去現在未来への移動である。過去の先人の技や教えに学び、身に着け、改良・発展させ未来の後進たちに引き渡すという時間の移動である。二つ目は、過去現在未来という時間空間が一つに身におさまり、自在に過去現在未来を生きる事、技がつかえることである。これを大先生は、「植芝の武産合気は、この木刀一振にも宇宙の妙精を悉く吸収するのです。この一剣に過去も現在も未来もすべて吸収されてしまうのです。宇宙も吸収されているのです。時間空間がないのです。億万劫の昔より発生した生命が、この一剣に生々と生きているのです。古代に生きていた私も生きていれば、現在の私もいる。永遠の生命が脈々と躍動しているのです。」(武産合気 P.36)と言われている。
古文の3.は空間の移動である。合気道ではこの空間を顕界、幽界、神界というが、合気道でもこの三つの次元の空間を移動しなければならない。先ずは、顕界→幽界→神界への移動である。顕界から神界への移動が出来たならば顕界、幽界、神界が一つとなり身につき、自在に移動できるようになるはずである。
それでは顕界→幽界→神界の移動を合気道ではどのようにするかというと、魄の技をつかう顕界の稽古から気の技をつかって幽界にはいり、魂の学びによって神界にはいるのである。
古文に再会したことによって己の合気道の技が変わるように予感する。つまり、古文の技をつかうようになるということである。私の古文の技のイメージは有川定輝先生の技のイメージになる。簡潔で美しく力強く、千古の昔、過去、現在、未来と顕幽神界を胎蔵した技である。古文の技である。
古文に対照するのは現代文であるとすると、合気道にも古文的な技と現代文的な技があるように思う。一般的にやられているのは、言うなれば、現代文的な技であり、有川先生のような達人は古文的な技に感じられるのである。
現代文的技は誰にでもやりやすいが、簡潔さ、美しさ、力強さに欠けるように思う。
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