年を取るに従い、健康第一になってくる。若い頃は健康など余り気にしなかった。健康など当然であったし、それよりも大事なモノが沢山あったので健康が一番大事だ等と思わなかったのだろう。勿論、重い病気などで寝込んだりすると、健康第一だなと思う事もあったが、病気が回復して元気になれば忘却の彼方である。
高齢者の健康第一は切実である。健康でなくなれば終わりとなるからである。どんなに立派な家に住み、金が余り余っていても健康でなければ意味がない。健康には肉体的な健康と精神的な健康がある。要は身体と頭が健康かどうか、機能するかどうかということになる。
勿論、健康第一でなく、他のモノを第一にしている高齢者もいるだろう。経済的に困窮していれば、年を取っても働かなければならないわけであるから、経済第一だし、何をおいても少しでも金を稼ぎ貯めることこそ生き甲斐だとなれば金第一ということになる。
故に、他人はいざ知らず自分自身の事として健康第一を書く。私の場合は高齢者の健康第一である。
私の健康第一の健康とは“通常”“普通”であるということである。“通常”“普通”の健康であればいいということである。若い頃のような健康ではなく、高齢者として生きていくための普通の健康である。若い頃のような健脚や記憶力ではなく、高齢者の人として“通常”“普通”に歩け、モノを見、食事をし、人と話せるということである。人として“通常”“普通”に生活が出来るということである。
何故、“通常”“普通”なのかを書く。自分の体験にある。
70歳を過ぎた頃からまともに歩けなくなったのである。部屋の中や路上をまともに歩けないし、階段の上り下りも苦労した。歩行の速度は減速し、若者はむろんのことほとんどの人達に追い抜かれていた。それでも道場稽古は続けていた。注意したので、おそらく周りの稽古人達はその異変に気づいていなかったはずである。只、前受身が取れなくなっていた。
このような状況にあって切実に思ったことが健康第一であった。そして前のようにとはならないまでも“通常”“普通”に歩け、動ければいいと心から願ったのである。“通常”“普通”に歩け、動け、合気道の稽古が続けられれば、他はどうでもいいと思ったのである。
お蔭様で、今は“通常”“普通”で歩き、動き、稽古をしている。本来なら健康になれば後はどうでもいいことになるわけだが、以前からの第一が頭をもたげてきたのである。健康第一の他に、もう一つの第一があったのである。それは“使命”である。己の一番やりたい事、やるべき事、時間と労力を掛けている事である。合気道ではこの世に生まれて心体を授かった者には使命が与えられていると言われているがその使命である。
私の使命は合気道である。合気道の修業である。そしてこの修業から教えて貰い、見つけ・気づいた事を後進達に継承することと思っている。そのために稽古を続け、論文を書き続けている。1000回、計4000編を目指している。
これからはますます使命のために老後を生きていくことになる。使命第一ということになるわけだが、そのためには健康が第一という事になるわけだから、やはり健康第一なのだろう。