武道の修業、合気道の修業には終わりがない。この意味は修業を続ければ腕も上がり続けるということである。喩え、年を取っていって多少体が不自由になっても上達するという事である。ここがスポーツと大きく違うところである。スポーツは若い内はいいが、高齢になれば若者には敵わなくなってくる。合気道の世界でも現状は似たようであるが、武道、合気道の本来の姿ではない。言うなれば、合気道のスポーツ化である。魄の力に頼る稽古をしていることにあると考える。
合気道は、修業を続ければ続けるほど腕を上げ、上達するわけだから、年を取れば取るほど上達するはずである。修業を続けるという事は年を重ねる、年を取るという事になるからである。
しかし、実際は高齢になると力も体力も衰え、それに連れて技も衰えるようだ。高齢者は、長年稽古をしてきた先輩でもあるという自負があるので、若い後輩にはやられたくないと思うのか、体が動かない分、口が動く事になる。そしてその内に引退となるのが現状のようだ。
これでは高齢になっての稽古は続かない。それではどうすれば高齢者の稽古が続き、上達があるかを研究してみることにしよう。
稽古が続くには、稽古をする意味がなければならない。
その一つは、稽古することによって上達しているという実感を持つことである。昨日より今日、今日年より今年は上達したと実感することである。またそれまで分からなかった事が分かった喜びである。
二つ目は、自分が武道的に変わっていく実感である。去年の自分と今年の自分が変わった、違っているとの実感である。
そして、三つ目が明日の自分がどのように変わり、上達するか、そして最後はどのように変わっていくかという期待である。
高齢になると若い時にできなかったような稽古が出来るようになる。逆に言うと、若い内はなかなかできない稽古が出来るということである。
その典型的なのが気の稽古である。若い内は目に見える顕界の稽古であり、物理的稽古である。所謂、魄の稽古から抜け出し難いのである。
高齢になってくると、魄に頼る物理的稽古はできなくなってくるので、他の稽古をしなければならなくなる。目に見えない世界、精神的幽界の稽古に入るわけである。
顕界の稽古は人間相手、人間対象の稽古であるが、幽界・神界の稽古では宇宙、天地、神対象の稽古になる。宇宙の営み、天地の営み、神の営みに習った営みを技の形で学ぶわけである。所謂、宇宙の法則を合気の技を通して身につけて行くのである。これが合気道は技を錬磨して精進するということであると思う。
宇宙の法則及び合気の技は無限にあるわけだから、修業は果てしなく、修業に終わりがないことになる。修業の終わりはお迎えが来た時である。
高齢者になっても、はじめは技を一つ一つ、ばらばらに身につけて行くしかない。例えば、足を左右陰陽につかう、手も左右陰陽につかう、手と足をシンクロして左右陰陽につかう。手を円くつかう。等々である。
技は時間を掛ければかけるほど身に着くわけだから、年を取るにしたがって技がどんどん身に着く事になる。ある程度の技が身につけば、若者の魄の力に勝ってくるようになる。そして高齢者が上達しているという感覚になる。
更に高齢になってくると、それまでバラバラに身についていた技が一つに繋がり、統合してくるようになる。一つの形、例えば、片手取り呼吸法をつかうに当っても、これまでやってきた技が総動員するのである。大先生が一本の木刀を持って、この木刀一本にも宇宙が入っているといわれたのはこの事だと思う。
技が総動員するようになると、身体が一つになって働くようになる。手、足、腰、頭、肩等などが一つの塊となり、何処にも隙が無く、無駄なく動くわけである。故に、一か所、例えば、手先が動けば連動して他の部位、身体全部が動くので、無駄なく、美しく、強力な動きになる。己以外の力が働くのである。この極限こそが神技だと考える。そして神技になれば、そこには魂の働き(魂のひれぶり)があり、魂があることになるはずである。若者なにするものぞとなるわけである。
高齢者になっても上達する、どのように上達するのかを書いてみた。上達する高齢者がどんどん増えていくことを楽しみにしている。