【第974回】 合気道の修業に何故終わりがないのか?

過って正面打ち一教の難しさに悩まされた。他の基本技は上手くいくのだが、正面打ち一教が上手くいかないのである。この時点で上手くいくとは、受けの相手を投げたり押さえることが出来たという事であった。つまり正面打ち一教では相手が倒れなかったということである。今考えれば幼稚な稽古をしていたと笑えるが、当時は何故なのか、どうすれば上手くいくようになるかを結構真剣に考えていた。そうこうするうちに10年、20年が過ぎ、正面打ち一教も大分上手くいくようになった。そして何故正面打ち一教は難しかったのか、上手く出来なかったのかも分かってきた。

出来なかった正面打ち一教が出来るようになった理由は主に二つあると考える。
一つは年のお蔭である。高齢者になったお陰という事である。正面打ち一教が出来ずに悩んでいたころは、大先生が云われる鼻たれ小僧であり、腕力に頼る顕界の稽古をしていたのである。力と力の争いになり、相手に力があったり、頑張られれば動けなくなり、上手くいかなかったわけである。
高齢者になり年を取ってくると腕力はどんどん減退するから力で相手を倒す事が出来なくなる。しかし合気道は武道であるから相手が倒れてくれるようにしなければならない。相手を倒そうとすれば魄の力になるから、相手が自ら喜んで倒れてくれるようにしなければならない。そのためには腕力にかわる気や宇宙の水火の力等をお借りする事になる。これはこれまで研究してきた通りである。
つまり、合気道は年を取らないと真の合気道の技をつかうことは出来ないだろうという事である。もしかしたら、将来、若くして気の技や神業をつかえる稽古人が現われるかも知れない。その可能性はあるだろう。そう言う人を合気道の天才ということになるだろう。

正面打ち一教が出来なかったもう一つの理由である。それはやるべき事をやっていなかったということである。相手を倒せばいいとばかり技と体と心をつかっていて、やるべき事に気づかなかった、知らなかったのである。つまり、やるべき事をやれば相手は頑張らずに倒れてくれるということが分からなかったわけである。
しかし、いろいろわかって来るとやるべき事は沢山あるし、恐らく無限にあるようである。例えば、正面打ち一教でやらなければならないこと、つまり身に着けなければならない事は、今ちょっと書き出してみるだけでも次のようになる。
まず、技の基本は、宇宙の営みであるから、布斗麻邇御霊の水火ということになる。これを言霊の親声“あおうえい”でつかわなければならない。そして、

等々

このようにやるべきことは沢山あるわけだし、まだまだやるべき事はあるはずである。やるべき事とは宇宙の営みを形にした条理・法則であるから無限にあると考えるべきである。これを身につけて行くわけだから時間はいくらあっても足りない。修業に終わりがないということになるわけなのである。