【第974回】 合気道の目指す技

合気道は技の錬磨によって精進していくと考えている。勿論、技の錬磨は体だけでなく頭の錬磨も必要である。大先生の教えを理解し、会得し、技に取り入れなければならない。

入門したての頃の技は型であり、体の動きもロボットのようなものである。この型は合気道の技の型紙であるから、型が身に着くまでは型に忠実に体をつかわなければならない。型がどれだけ正確に身に着くかどうかが、後の技の上達の有無に関係するからである。型を正確につかうことは結構難しいし、忍耐を要する。そしてやるべき事をやらずに手を抜いたり、自分のやり易いようにやりがちなのである。勿論、この段階では、頭は型で精一杯なので理合いを考える余裕はないだろう。

型を覚えてくると、型に自分が入って来る。この自分を性(さが)と言うようだ。ここで型は形に変わると考える。型の技から形の技になるわけである。
自分(性)が入った形の技になると、相対稽古の相手を投げよう、押えようと魄の稽古になり、魄の技になる。
ここまでは誰でも経験することである。この魄の稽古の期間は長く続くし、人によってはそのままで終わってしまう場合が多いようだ。

次の技は、魄に変わった気の技である。魄の錬磨から気の錬磨をし、気を主体に技をつかうのである。魄を土台に、気をその上にして技をつかうのである。この次元に入るため、そして入ると頭の鍛練も必要になる。大先生の教えの詰まった『武産合気』『合気神髄』を熟読しなければ、気は分からないし、技につかう事もできないからである。

気で技がつかえるようになると、これまでの魄の技とは異質の技になる。力強く切れ目のない技になるのである。魄の技はどうしてもどこかで切れてしまい、そこで相手に頑張られたり返されてしまうので、技か掛からないと同時に美的ではない。
しかし、気の技も完全ではなく、更なる精進の必要を感じるのである。気の先にある技づかいである。それは“魂”であり、魂の技ということになる。“魂”はまだよくわからないが、これまで分かった事は、気、気の力はまだ作為的力、人為的力であるが、魂、魂の力は無作為的、無人為的、超人的な力であるだろうということである。そして超人的な力は神の働きということになる。つまり、魂は神ということになるわけである。
 
  魄  →    気   →   魂
 人の力   人為的・作為的力 無作為・超人的力=神

気で技をつかっていると、無作為・無意識のうちに自然といい技やいい動きになっていると感じる事がある。一つの技全体ではなく、その一部であるがそう感じるのである。そうすると相対の受けの相手は気持ちよく倒れていくのである。気の場合はこちらの意志が反映し人為的に感じるが、ここではこちらには倒そう、決めようという意志はないのに相手は倒れるのである。私の代わりに何かが働いてくれるということになるだろう。その何かこそ、魂であり、神であろうと考えるのである。

話しを戻す。合気道の精進は技の錬磨である。ということは技のレベルによって己の合気道のレベルも決まり、分かるということである。合気道は武道であるから、合気道のレベルは“力”と“美しさ”であると考える。力と美のレベルが高ければ、己の相手も納得するから善であり真である。正に合気道は“真善美”を追求しているわけである。
要は、より力強く、そして美しい技になるようにしていくことになるわけである。

魄の技、気の技、そして魂の技とレベルアップするわけである。それでは魂の技がつかえるようになったなら、今度は何を目標にして技の錬磨をすればいいかという事になる。技の更なる精進である。
そのためには目標のイメージを持てばいいと考える。そして有難いことにはそのイメージがある。それは大先生の技づかいであり、有川先生の技づかいのイメージである。これらのイメージに少しでも近づくように技の鍛練をすれば、更なる精進があるはずだと考えている。