【第973回】 体当たりが必須

最近気になりだした事がある。後輩たちの稽古を見ていると、これでは合気の技にならないだろうと思うことである。そう思う理由は、相対稽古で相手が打ったり、押えてくる手と体に対して、己の手と体を前に進めず、後に下がって受けてしまうことである。受けてから返そうとしているのである。
相手の攻撃に対して逃げる(後ろに下がる)のではなく、手も体も前に進めなければならないのである。これを過っての先輩たちは、体の体当たりといっていた。

体当たりは必須である事は、私の独善ではなく大先生からの直接の教えなのである。
入門して一年も経っていなかった白帯時代、稽古の休み時間に稽古仲間と二人で正面打ち一教の稽古をしていた。過っての正面打ちは、一教にしても入身投げにしてもお互いに思い切り叩きあう(切り合う)ので小指側の手の骨、尺骨が痛くて腫れあがっていた。そこで二人は痛く腫れあがっている尺骨にお互いぶつけないようにとそーと滑らすように手を出し、受けていた。そうしたら、稽古をしている道場に隣接してあった事務所の窓から大先生がそれをご覧になっていたのか、大先生の目と私の目が合ってしまい、その瞬間、大先生は突然道場にお入りになりながら、「そんな稽古をするな」と烈火のごとく大声で叱責されたのである。しかも、私たちのところではなく、ちょっと離れて5,6人の年配の稽古人と雑談されていた藤平光一先生(当時の師範部長)のところで叱ったのである。当然、藤平先生たちは何で叱られるのか分からなかったが、大先生に叱られるのには慣れておられるので、只、申し訳ないと謝られておられた。大先生は間もなく自室へ戻られたが、藤平先生たちは何故怒られたのだろうとちょっと考えたようだったが、いつもの事だろうと、また、雑談を続けられていたので、藤平先生のところにお詫びに行きそびれてしまったのを今でも後悔している。
以前、この話を紹介した事があり、その時は、大先生が叱られたのは師範・先生の監督不行き届き、つまり初心者にもしっかり教えなかったことへのお怒りだと思っていた。つまり、私たちも悪かったが先生も悪かったということだった。
しかし、大先生が珍しく烈火のごとく怒られたのは、合気の技をつかう、練るにあたって大事な事、欠かしてはならない事、つまり必須事項を無視したことにあったと思うようになった。手が痛かろうが、体当たりせずに逃げてしまったのでは合気にならないと、大先生は悲しかったはずである。それで体当たりが必須であるということをお叱りで教えて下さったように、今では思えるのである。大先生の数少ない直接の教えである。

先ずは、体(手と身体)を相手にぶつけなければならないということである。
はじめは手を出し、手で相手に体当たりする。そのためにはしっかりした手、頑強な手をつくらなければならない。
次の体当たりは、手を腹と結び、腹で結んだ手での体当たりである。手だけの体当たりよりも強力な体当たりになる。顕界の稽古、魄の稽古の体当たりということになる。
ここまでは「合気道の体をつくる 第546回『気の体当たり、体の体当たり』」で書いたことである。

今回はその次の体の体当たりと気の体当たりである。息陰陽水火による体当たりである。幽界の次元、気の次元の稽古の体当たりである。
息陰陽水火の体当たりをどうするかというと、天の浮橋に立ってからでも布斗麻邇御霊でも、“う”の御霊で手を出す。手は反対側の肩と顔で導く。手は肩に引き付けられる。手は引かれて陰の手となる。息と手(体)が陰に働くと陰の手の手先が陽に変わって働くようになる。陰で陽をつかうということである。
しかし、この息陰陽だけでは次の動作に移れない。この問題を解決するのが水火である。合気道の技と動きは、はじめから終わりまで水火で収めなければならない。“う”の直前は腹を絞った水であるから“う”で腹と体と手を火で円く広げる。これが息陰陽水火である。
この息陰陽水火で手と体を相手の手に体当たりするのである。陰の体と息、そして水火の火によって相手と体当たりし、一体化し、そして制し導く事ができるのである。
因みに、息を吐きながらの息陽で手や体をつかえば、相手とまともにぶつかり、弾き合ってしまう。故に、息陰。体陰で体当たりしなければならないのである。

息陰陽水火で体の体当たりが出来るようになると、体をそれほどぶつけなくても、相手に触れた状態、または相手に触れなくとも相手を体当たり出来るようになるようである。つまり、気をぶつけることによって、相手は体にぶつかったような反応を示すのである。これを気の体当たりというのだと考える。