合気道は相対で技を掛け、受けを取って精進していく。60有余年も稽古をしているから、相対での相手は相当な数になるはずである。やりやすい相手もいたし、やり難い相手、技が効かない相手などいろいろあり、技が気持ちよく掛かったり、全然決まらないこともあった。相手によって技が効いたり、効かなかったりしたわけである。簡単にいえば力不足だったということである。
故に、一時は稽古相手を選び、自分のやりやすい相手と稽古をする傾向にあった。この傾向は大分長い間続いていたようだ。
最近、一か月ばかり、知った相手がおらず、白紙の状態で相対の稽古相手と接することになった。私の顔を知っている人は傍に寄り付かず、私の顔を知らない人、特に、外国人が傍に坐り、稽古をすることになる。
昔を思い出し、多少緊張しながら技を掛けたが結構うまくいったので満足したところである。何に満足したかと言うと、どんな相手でも稽古はできるということが分かったことである。老若男女、強弱、日本人外国人関係なく誰とでも稽古ができるということである。稽古が出来るという意味は、技が効くと同時に、どんな人との稽古でも自分の稽古になるということと、相手も稽古になるということである。換言すれば、相手もその稽古に満足するということである。
技が効かなければ相手は倒れないし、決まらない。技を掛けたら相手は倒れたり決まっていなければならない。何故ならば、合気道は武道であるからであ。しかし、合気道の技は相手を倒したり、決めたりするのではない。合気道のジレウマであり、パラドックスである。つまり倒す事が目的ではなく、結果として倒れるということである。
相手はこちらの技に納得し、倒れてくれるわけである。技に納得するという事は、技が理に合っている、理合いの技ということである。何の理かというと宇宙の意志、営み、法則に則っているという理である。理合いで技をつかうと受けの相手は、自分を倒すために技を掛けているのではない事を感じ、、宇宙と一体化しようと自分に技をつかっていることを感じるのだと思う。
もう一つ、どんな相手とも稽古が出来るためのモノがある。それは“気”である。気によって相手と相手をくっつけてしまうことである。相手をくっつけてしまうから、どんな相手ともひとつになるのである。勿論、くっつき易い相手もいれば、引っ付き難い相手もいる。稽古の浅い相手や力の弱い相手は概して気が弱いのでくっつき難い。そのために、こちらの気をより強力にしなければならないことになる。
力が強い、頑強な相手は気もよく出ているから、こちらの気でくっつき易いことになる。技が掛かり易いことにある。
しかし、気が出ている事は本人達は自覚していないようである。その気を感じさせ、つかえるようにしてやりたいものだと考えている。
理合いと気によって、どんな相手とも稽古ができるようになったということである。60有余年掛かったのも無理がない。