『世界のエリートは何故「美意識」を鍛えるのか?』を読んだ。この本の帯には「グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補生を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、虚仮威しの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的のために「美意識」を鍛えている。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のような複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。」とある。
この本の主旨は、企業の幹部候補生だけでなく、企業トップのCEOも「美意識」を鍛えなければならないということである。これまでの「科学的経営管理」、つまり、分析、論理、理性による経営は成り立たないというのである。これからのますますの不確実性の高い意思決定においては、経営者の「直感」や「感性」、言いかえれば「美意識」に基づいた大きな意思決定が必要になるというのである。
これは合気道を修業している者としても非常に興味がある。合気道は強い弱い、勝った負けたの世界だけではなく、合気道は真善美の探究でもあるということに符合するからである。
武道である合気道でも美は大事である。技は美しくなければならないし、少しでも美しくしなければならないと考えているからである。また、最近では、美には力があると思うようになったし、感得出来るようになり、ますます美に興味を持つようになっていたので、その矢先でのこの本との出会いなのである。
この本を読んで確信したことは、合気道でも只、道場で技の稽古を繰り返していたのでは不十分であるということ、合気道の世界以外の勉強も必要であるということ、そして美意識を鍛える事が必要であるということである。
美意識を鍛えるとは、まず美の重要性を認識することである。美しい技、立ち振る舞い、動きは美しいだけでなく、力があるのである。逆に言えば、美のない技は力もないし、相手や周囲に対する説得力という力もない。美が無ければ、真も無いし、善も無いことになるのである。
真善美の探究とは真善美を鍛えるということだと考えるが、真と善を鍛えるのは難しいし、どうすればいいのか分からない。鍛える事ができるのは美である。美は目にも見えるし、自らつくることが出来るからである。また、美が鍛えられれば、真と善が自然にレベルアップすることが分かっている。
60年以上合気道を続けているが、ようやく合気の技がつかえるようになってきたと思っているところである。魄の技から気の技、理合いの技、そして今は、魂の技に挑戦しているところである。ここまで来るにはいろいろやってきた。道場での相対稽古も十分やったが、道場外での経験もいろいろあった。しかし苦しい修業というのではなく、楽しい修業であったと思う。
美意識を鍛えることも、無意識のうちにやっていた。例えば、歌舞伎、お能、オペラ、映画、絵画展、書道展、刀剣展などはよく鑑賞した。最近では、土偶展、埴輪展にも行った。また、神社、仏閣、日本庭園もよく探索した。勿論海山川も散策した。日本国内だけでなく、海外、特に、ドイツ、フランス、オーストリア、スイスやその周辺国の海山川でも美を味わった。
合気道的に美には二種類あると考える。目に見える美と目には見えない美である。一般的に、また、合気道の初心者のころは目に見える美を追っていた。形や色や線が美しいとか、衣装が華やかだとか、動きがいいとか等々を見ていたのである。要は、人工がつくり出した美を目出ていたということだろう。
最近は、目に見えないものを見るようになったようである。人がつくった人工物ではなく、自然がつくるものである。その究極の例は神業である。人の手では到底不可能と思えるモノを見るのである。神業を見ることによって、己の技を神業にしたいと思うのである。
名人、達人、そして自然がつくり出すものは神業である。大先生のような名人の技や名人・達人の作品、そして自然から神業を学ぶのである。神業とは究極的な美であるから、美意識を鍛える最良の方法という事になるはずである。前にも書いたように、神業は武道だけでなく、画家、書家、音楽家、芸能家、科学者等々の中にあったり、ある。
自分の技にも、これらの美から得られた美意識が働かなければならないと思っている。この自分の美意識を更に鍛えていけば、技も己自身も精進できる思っている。これからもいろいろな方法で美意識を鍛えていくつもりである。
参考文献
『世界のエリートは何故「美意識」を鍛えるのか?』(山口周著 光文社新書)