【第971回】 合気道の思想と技のもと

合気道の修業を続けて行くと、合気道の奥深さや裾野の広さを思い知らされる。顕界の稽古をしている時は、何か向うにはあるとは感じていたが、あまり気にすることもなかったし、技の稽古も問題なくやっていた。
しかし、幽界の稽古、つまり気の稽古に入ってくると、これまでの技づかいや体づかい、それに考え方では真の合気道の技はつかえないことが分かってくるのである。
それまでつかっていた体を、ただ強力につかったり、早くつかえばいいということではなくなってくる。これまでとは違うつかい方をしなければならなくなるのである。それは何が違うのか。簡単に言えば、体は宇宙の営みでつかわなければならなくなるのである。体だけでなく、心も宇宙の営み・意志でつかうようにしなければならないのである。

顕界では、所謂、常識的な考え方、物の見方、やり方で合気道を考え、稽古をしていたわけだが、幽界の修業、そして神界の修業では、それまでの常識の範囲を抜け出さなければならないと考える。魄の顕界の次元では、自分との戦いであり、他人との戦いと人間対象であるが、それを先ず脱皮することである。修業は、山川草木禽獣魚虫類も対象になるのである。また、顕界では目に見えるモノを大事にしているが、幽界からは目に見えないモノを見るようにしなければならない。例えば、神や仏である。大先生は、「諸神諸仏、山川草木禽獣魚虫類に至るまで悉くこの大宇宙のご全徳は現れている。このご全徳を一身に受けとめて人としてのつとめをするのが合気道である」と言われているのである。要は、技が変わるだけではなく、モノの見方、考え方、話し方、価値基準等などもかわらなければならないということである。

大先生は、神様の話をよくされていた。当時は、神様の話そのものもよく分からなかったが、何故、神様のお話をされるのかが分からなかった。合気道の技を覚えようとして汗水流しているところで神様のお話である。我々の本心は、神様の話より技の稽古をしたい事であった。
今になると、大先生のお気持ちがよく分かり、大先生のお話を聞かずに不謹慎であったと反省しているところである。

大先生は日常的な、常識的な考えで稽古をしていては駄目だということを教えて下さっていたのである。日常的に、強いとか弱いとか、速いとか遅いとか、上手いとか下手とか相対的な稽古、目に見えるモノを対象にしたり、頼っては駄目だということ、つまり、顕界での魄の稽古に留まっていては駄目であるということである。また、道場とか、日本とか、地球とかに留まらず、宇宙的な技づかい、体づかい、そして考え方をしなければならないということである。これが合気道の思想と技のもとであると考えるのであり、真の合気道であると思う。
簡潔にまとめてみると、一般的な目には妄想とか空想と思われるようでなければ、この深淵で神秘な合気道の修業は難しいと思うのである。常識的、科学的だけでは会得は難しいということである。人間界の常識ではなく、宇宙の常識が必要なのである。

この論文のタイトルは『合気道の思想と技』と深く考えもせずにつけたが、ようやくこの意味が分かったようである。真の意味もよく分からずにタイトル名にしていたわけである。何はともあれ、『合気道の思想と技』の本の意味がわかりほっとしているところであり、また、その奇遇さに驚かされているところである。世の中は摩訶不思議である。これが面白い。