【第970回】 意識で技をつかわない

解剖学者、養老孟司先生の『考える、生きるために、考える』(リベラル文庫)を読んだ。いつものように大事な事を学んだ。これまで明確でなかったことが明確になった。お陰で、合気道の探究が更に進むと確信した次第である。

取り分け、次の文章の内容が大いに参考になる。
  1. 「戦後社会の変格を、私は都市化と定義してきた。(略)しかし私が経験してきた社会変化の基本は、要するに都市化であり、理科的に表現するなら『脳化』なのである。そうした世界では、人々は自然を排除し、すべてを意識化しようとする。つまり人工化しようとする。」
    <ここでのキーワード>は、都市化、自然の排除、脳化、意識化である。
  2. 「私の考えでは、自然とは、人が意識的に作り出さなかったものである。その定義に従えば、われわれの身体は自然である。意識で構築されたものではないからである。」
    <ここでのキーワード>は、身体は自然。意識で構築されたものではない。
  3. 「自分とは、意識と、意識以外の身体からできている。昔風にいうなら、心と体である。(略)身体も(子供も)自然だからである。(略)だから一日に一度は、自然と対面すべきなのである。)
    <ここでのキーワード>は、意識と、意識以外の身体。心と体。身体も自然。
  4. 「私たち自身が自然であり、身体のすべてを意識化できないことは、わかりきっているからである。」
    <ここでのキーワード>は、私たち自身が自然。身体のすべてを意識化できない。
合気道の修業を半世紀以上続けていて大分いろいろなことが分かってきたがまだまだ分からない事、明瞭でないものがある。今回、その幾つかが大分明瞭になった。
まず、この本の主旨は、世の中は、自然の排除で都市化し、人も意識化、脳化でいろいろな問題が発生している。世の中をよくするには自然を大事にし、自然な身体を重視しなければならないであろう。
これは合気道の修業や技づかいにも関係ある重要な事項であると思う。どのような関係があるかを次に記す。

合気道の技は意識でつかうなということになる。意識でつかう技は人工技となる。初心者の技は頭で考えてつかう技、人工技、脳化技である。技の形を覚えるまでは仕方がない。人工技、脳化技はせせこましいし、弱いし、美しくもないので、この人工技、脳化技に留まっていないようにと合気道では教えている。この段階の稽古を魄の稽古、魄の技というのだと思う。
更に、上記D.にあるように、身体のすべてを意識化できないわけだから、意識しては身体の隅々まで指令して働かせることはできないことにもなる。無意識でなければ身体のすべてを意識できないのである。頭から手足の末端までを感じ、働いてもらうことなどが出来ないということである。技を錬磨しているとそれがよくわかる。意識していると魄の力が出るだけで、気も魂も出ないようなのである。

それでは意識(脳、頭)、人工が駄目なら、何処で、何で技をつかえばいいのかという事になる。
この反対でやればいいはずである。無意識と自然である。
無意識で技と身体をつかえばいい。顕界から離れ、幽界、神界に入り、技で相手を倒よう、決めようなどと思わず、宇宙の営みと合致した動きにするのである。宇宙の営みとは、一霊四魂三元八力、布斗麻邇御霊とそこから割れ別れた水火の営み・働き等である。宇宙は人がつくったものではないから自然である。宇宙は大自然である。人の身体も自然である。人は故にミクロコスモス(超小宇宙)ともいわれるのである。大宇宙と超小宇宙を結び付けるのは気であり、魂であると思う。

大自然である宇宙の意志と営みに従って身体と技をつかえばいいということになる。これには意識は不用である。人工的なものを創る必要がないからである。このためには心(意識、脳、頭)と身体を自然にもどしてつかわなければならない。これが合気道でいう禊であると考える。故に、合気道は禊であるといわれるのだと思う。

解剖学者の科学の分野と武道の合気道の世界が結びついた
という実感をもった。やはり合気道は、大先生が云われている通り科学なのである。これも今回の収穫であった。