傘寿を過ぎ、一人で気ままに過ごしている。以前、女房も元気で、多くの友人、知人と和気あいあいとやっていた頃とは大分違う。
一人になった当初は孤独や寂しさは多少あったようだし、これからどうなるのか心配もした。そのような多くの高齢者の姿を街で見かけていたからである。しかし、いつの間にか孤独や寂しさや心配は消えていた。合気道のお蔭である。
人間、高齢になり、一人になると真剣に生きようと考えるようだ。それまでの人生は一生懸命に生きただろうが、謂わば、若さにまかせた惰性であったようだ。真剣に生きるとは、“人生とはどういうことか。自分は何をすべきなのか、したいのか。残された時間をどう生きるか等”を改めて考え、実行に移す事だと思う。また、真剣に生きるとは、残された時間と日々を楽しむ事である。楽しいとは感動と充実である。感動と充実は日々新たな出会いにある。新たな出会いの感動と充実により自分が変わる。今日変われば、明日も変わり、一年後は更に変わる。この自分の変化・変幻ほど感動し充実させてくれるものはない。この変化・変幻があるから少しでも長く生きようと思うのである。自分が変化しなければ生きる意欲は半減するはずである。
それでは感動と充実を与えてくれる新たな出会いとは何かということになる。それを合気道では、万有万物、八百万の神である。万有万物、八百万の神が感動や充実感を与えてくれるのである。例えば、人である。周りの人であり、過去の人である。若者のエネルギー、老人の知恵、子供たちの元気・純粋さ等である。
“感動と充実を与えてくれる”を別な言葉で云えば、“教えてくれる”“教わる”となるだろう。どんなモノ(万有万物)からも教わるということになる。例えば、街を一生懸命に歩いているが思うように歩けない高齢者からでも、何故もう少ししっかり歩けないのか、どうすればもう少し歩けるようになるのか等を教えてもらうことができ、己の歩法を改善できるのである。
合気道では、山川草木禽獣魚虫類から学ばなければならないとある。合気道を真から学ぶつもりなら、気をつけて周りを見ていれば、学ぶ事の出来るモノはいくらでもある。
山川草木禽獣魚虫類、万有万物から教えを受け、学ぶためには対話が必要になる。心の交流である。心の交流で対話をすれば友達である。身の回りには無数の友達がいるわけである。寂しく等ない。魄の顕界にある若者には難しいだろう。
他人や山川草木禽獣魚虫類以前に対話をしなければならないモノがある。それは己の体である。合気道の技は体を上手くつかわなければいい技にならないので、体に働いてもらわなければならない。体、体の部位と仲良くなり、対話をすることになる。体も友達なのである。友達になるためには、働いてくれとのお願いだけでは駄目で、手入れとお礼・感謝が必要である。朝、禊や洗顔で「いつも有難う。今日もよろしく」と、感謝し、清潔にしたり凝りを解したり、マッサージをしてお返しをするのである。
もう一つの対話がある。八百万の神である。合気道は技を錬磨して、その技が魂の技、神業になることであるから、神様の力をお借りしなければならないのである。天之御中主神、高皇産霊神・神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神だけでなく、すべての神という神との対話である。いうなれば、少しでも多くの神様と対話をすることである。従って、神社仏閣があればどこでもそこで手を合わせたり、こうべを垂れ、対話、つまり祈るのである。
八百万の神、己の体、山川草木禽獣魚虫類、時空を超越した人等とも対話ができるわけだから、高齢になっても寂しいことなど無いし、感動があり、生きている充実が持てるのである。