先日、ナットキング・コール(写真)のCDを買った。ジャケットの写真の示すように、彼がデビューして間もない頃の歌の収録盤である。晩年(1965年死去)のものとは大分違う。どう違うかというと、当時の彼の歌はまだ彼らしい個性がそれほど出ておらず、他の若い歌手たちとそれほど大きな違いはなかったということである。容姿も普通の歌手とあまり変わりない。しかし、そこには個性の芽生えが見える。天才、達人を感じるのである。
人を越えた神の声は最高の個性の歌手と考える。思いつくままに、例えば、エディット・ピアス、マリア・カラス、イタリアの三大テノール歌手(ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティ)等である。
書では、篠田桃紅。絵では、葛飾北斎、東山 魁夷などが私の最高の個性の持ち主であり、神業の持ち主である。
しかし、彼らも基礎から学んだ普通の卵から始まり、共通のやるべき事をやり、身につけて行ったはずである。この頃までは、個性があってもまだまだ小さな個性であり、人を仰天、驚愕させるようなものではなかったはずである。
合気道で考えてみれば、最高の個性の持ち主は、合気道の開祖、植芝盛平翁である。神業を出せるような個性の持ち主である。開祖は、個性は大事だということをつぎのように表現されていると思う。
「合気の道を究めるには、まず真空の気と、空の気を“性”と技に結び合わせ、喰い入りながら技のうえに科学をもって、錬磨するのが修業の順序であります。」(合気神髄P.123)
つまり、この“性“が個性ということだと考えるのである。性と技を結び合わせて技を錬磨していけば最高の技、神業が生まれるということになるはずなのである。
合気道において、真の個性を出すとは神業を生むということだと考える。開祖が言われる、合気道は魂の学びであるということは、神業を生むということ、真の個性をつくることだと考える。よって、同じ個性は出来ないし、神業も異なるはずである。上記の神業の歌手や絵描きを見れば明白である。
やったことは同じであるが、最後に個性となって異なって現われるわけである。合気道の場合は、はじめは、型→形→形なし→個性となるはずである。故に、個性は基本が土台になる。基本をしっかり学べという事である。基本がないのは、自己流になり、共通性と発展性がなく一代限りになる。
八十寿(やそじゅ)を過ぎ、合気道の修業も半世紀以上になる。そろそろ個性が現われるような技をつかうようにしなければならないと思っているところである。