これまで技と体を剛柔流でもつかえるように稽古してきた。骨を主体とした鉱物のような堅い技の剛の技、筋肉を主体とした植物のような柔らかい技の柔の技、気持ち(気)を主体とした空気のような流れる技の流の技である。
しかし、中々上手くいかない。剛の技では力んでしまうし、柔の技は剛の技を力を抜いてやるが、それでは技にならない。流の技など単独でやれば格好いいが、相対ででは通用しない。
何とか、剛の技と流の技の両方の技がつかえればいいのだがと思っていたところ、ようやくその両方の技がつかえるようになったようである。
剛か、流かどちらかだけでもいいだろうと思うかもしれないが、大先生など名人・達人はどちらも出来たし、己自身もそう希望している。そして後で分かるのだが、剛の技も流の技も本来、それほどの違いはなく、ほぼ同じであるということなのである。つまり、気による呼吸力があれば、剛の技にも流の技にも、どんな技にもなるのである。これを、「合気道では、しばしば“気”“気の力”“気の流れ”という言葉が用いられるが、これが合気道の技の生命として流れる時、その力を呼吸力という。合気道ではどんな技も、どんな動きもこの呼吸力がなくては絶対正しい技とは言い得ないのである。」(合気道技法P.59)と教えている。
“気”“気の力”“気の流れ”の呼吸力を身に着け、技につかうためにはどうすればいいかである。呼吸力を養成する最善の方法は呼吸法であるから、片手取り呼吸法でやってみればいい。
剛の稽古は、息陰陽で体を肉で張る。手先は体の中心線上を円く動き、手首→肘→肩→胸鎖関節→腹→足と他方の手が張り、体が統合・一体化する。体は剛の体となり、この剛の体で技をつかう。この剛の体をつくる事とつかう事が剛の稽古と考える。
気の稽古は、肉体主体から肉体を土台にし、気主体で体と技をつかうことになる。息陰陽で体を気で張る。手首→肘→肩→胸鎖関節→腹→足と他方の手が気で張り、体が統合・一体化する。体は気の体となり、この気の体で技をつかう。従って、この気の体をつくる事とつかう事が気の稽古といいことになるだろう。
「気にも悉く剛柔流の働きがある。そして動いている。」(武産合気P.100)とあるように、剛の技にも気が働いている事になる。はじめは肉体しか感じないが、気も働いているのも感じる。気の技は勿論、剛の技も気の流れに従って技をつかい、体を捌いていくのである。つまり、「前出の剛の技も流の技も本来、それほどの違いはなく、ほぼ同じである」の意味するところである。
最後に、剛の技にしても気の技にしても、また、以前の力んだ技や力を抜いた技の良し悪しは、何を基準にすればいいかということである。
結論から言えば、体の統合と一体化である。体が、ばらばらではなく、一つになって動いているかどうかである。力んだり、気を抜けば体は必ずばらばらになり、一つになって動かない。
体の統合・統一・一体化をして技をつかわなければならないのである。そしてその意味と重要性を教えてくれるのが、この「剛と流(気)の稽古」であると分かったしだいである。