【第960回】 気と息の働きの違い

今回で960回になる。この論文の目標は1000回であるから、残すところ40回となってしまった。一年もない。
これまでは自分のやってきたことや考えを、自分のための日記風に書いてきたと思う。お陰で自分のための合気道は、技と考えはまとまり、形になったと思う。
これまでは自分自身を見つめ、対話をし、教えたり、教えられたりしてやってきたが、周りの後進達のことはあまり注意していなかった。後進に問題があったり、興味があれば私の論文を見ればいいと思っていた。本来、武道は人から教えて貰うものではなく、自ら問題を見つけ、そしてその問題を解決していくものだと思っていたからである。

論文も残すところ40編となると、寂しくなると同時に、何かこれまでと違う論文にしなければならないのではと考えた。そこでこれからは自分中心から後進のためにも書いてみようと思ったのである。後進が参考となり、直ぐに取り入れることができるものである。つまり、後進に分かりやすい論文である。これまでの論文は、自分が分かっている事やできることは書く必要がなかったわけだが、こちらが分かっていても、後進にはわからなかったことが多々あったようだ。
その典型的な例を最近体験した。「引く息(吸う息)は火、吐く息は水」である。長年、教えていた後進(七段)が、火と水は逆でしょうというのである。そして思ったのは、これは不味い、大変だということである。この「引く息が火、吐く息が水」が分からなければ、魄の合気道に留まるだけで、真の合気道に進めないからである。
そしてその後進には次のように伝えた。「吐く息で大きな力が出るから火となり、吸う息はそれに比べて小さい力しか出ないので水と感じるのは、口で息をしているからである。腹で息をするようにすれば、引く息は大きなエネルギーを生じる火となり、吐く息はその火を消す水と感ずるはずである。」
自分が分かっていても、後進には分かっていなかったわけである。これからは、大事な事は後進の立場に立って書いていこうと思ったわけである。

さて、本日のテーマ「気と息の働きの違い」である。これまで、魄の稽古の顕界の次元から気の稽古の幽界の次元の稽古に入るために、まずはイクムスビの息づかいで技をつかえばいいと書いてきた。イーと息を吐き、クーと息を引き、ムーと息を吐いて技と体をつかうのである。
最初は、口(口中)でイクムスビの息をつかうはずである。そして段々、腹(腹中)でイクムスビの息づかいをするようになるだろう。その方が息を使い易いし、大きな力が出るし、しかも自然であるからである。また、この腹で息をすることによって、引く息が火、吐く息は水と実感するのである。
更に、このイクムスビの息づかいから「気」が生まれ、気が働くようになるのである。息が気に変わるといってもいいだろう。

しかし、息はどんなもので、どのような働きをするかはある程度分かるだろうが、気がどんなもので、どんな働きをするのかは分からないだろう。これまでそれについていろいろ書いてきたが、他人には難しかったようなので、このイクムスビに関連付けて、もう少し分かりやすい方法を書いてみることにする。

合気道の精進は技の錬磨が基本である。技を上手くつかえるようにするわけである。上手い技の一つの要素は、技が切れない事である。技は一筆書きのように切れず、止まらない事である。技が切れたり、止まれば相手が立ち直り、反撃するので、武道としては失敗作である。
誰でも初めはボツボツ切れる技をつかっていたはずである。手や体を振り回して技を掛けるのである。低学年児童の技を見ればそれがよく分かる。
最初の切れない、止まらない技は息による。息で体と技をつかうのである。はじめはイクムスビの息づかいで技をつかえばいい。
しかし、息は永遠に続かないからどこかで切れる。切れると一筆書きの軌跡が切れる。また、息を吐き、引くと体と技は直線的になり、その要所々々で切れてしまいがちになる。

気はどこまでも続く。息が切れても気でカバーして一筆書きを続け、完了できるのである。それが気である。
この次元の稽古に入ってくると、イクムスビの息づかいでは納得できなくなり、次の息づかいになる。それは布斗麻邇御霊や“あおうえい“である。天地と一体となる息づかいである。これは息づかいと言うよりも気の働き・運行である。
気と技はから生まれる。

また、気が生まれると気によって手(体)が上下左右自在に働くようになる。手は上げるのではなく、上がるのである。こうなれば、手を上げる何ものかが気であることになるわけである。

後進達のためにもと思って書いてみたが中々難しい。自分にももっと分かるようにしなければならない。もっと頑張らなければならないようだ。