「気形の稽古」の論文は「合気道の思想と技」の第763回と第638回で書いた。それを読むと少しはわかったようではあるが、今になると、まだ何か大事な事が分からず四苦八苦している様子が見える。しかし解らないまでも何とか分かろうと挑戦しているのがいいと我ながら思う。
さて、今回も「気形の稽古」を書くわけだが、前よりも少しは益しなはずである。フトマニ古事記や息陰陽水火などで技がつかえるようになったし、気を生み出し、気が多少つかえるようになったからである。以前はまだ「気」がよくわかっていなかったわけだから「気形の稽古」など出来るわけがなかったわけで、それでも臆面もなく「気形の稽古」に挑戦していたのは偉かった思う。少なくとも「合気道の思想と技」の第763回と第638回が下地になって、今回の「気形の稽古」が書けるようになったわけだからである。
「気形の稽古」が大事であるというのは、大先生が「合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である」と教えておられるからである。合気道が上達するためには「気形の稽古」が必須であると言われているのである。
そして気形の稽古とはこのようなものであろうと実感できるようになったのである。
まず、気形とは何かである。簡単に言えば、気で一教や呼吸法の形をつくるということである。
これまでは、①はじめに身体で形をつくり、②次に息で身体をつかって形をつくっていた。③そして今度は気で身体をつかって形をつくるのである。
形をつくっても①の形は肉体的、人為的で不完全であり、形は美しくなく、武道的な力は弱い。故に、真の形ではないし、真の合気ではないはずである。つまり、③の気によってしか真の形はできないということになるわけである。真の形とは気の動きの軌跡であると考える。指先から出ている気が手先、腕、体、顔、足を技に導くのである。但し、この指先からの気は息から生まれる。息は口ではなく、腹(と胸)でする。引く息は火となり、強力な力を生み出す。吐く息は水であり、火を消す。引く息が先、主である。息陰陽である。息陰陽で気を出し、気の形をつくっていくのである。これはイクムスビの息づかいとは正反対になるわけである。
過って大先生の真似をして気形で技の稽古をして、それを見つけた大先生が激怒されたのが今になってよくわかる。やるべき事がこんなにあるのに、それを無視して安易に、表面的に技をつかって浮かれていたわけだから叱られたのは当然であったわけである。
息陰陽で気が指先から出ると、手先、腕、身体が気で満ち頑強になると同時に手先の気が己が希望する形に動いてくれる。この気で形ができるようにするのが真の気形の稽古であると考える。