大先生の最晩年の5年ほどお教えを受けた。今思えば、大先生は合気道が世のため人のためになるように、合気道を深め、広めようとされていた。それを阻害したり、間違ったことをすれば激怒されたのを思い出してもそれがよくわかる。
大先生のお話はよく分からなかった。だから分からないのが当然だと思ってお話を聞いていた。先輩たちにもどういう意味なのか聞いてみたが、先輩たちも分からなかった。先輩たちもほとんど分かっていなかったわけである。
大先生が亡くなってからは、大先生の教えである『武産合気』『合気神髄』を繰り返して読んでいる。『武産合気』『合気神髄』は合気道の聖典であると考える。はじめは分からないのが当然で、分かればめっけものと思って読んでいたが、段々、めっけものが多くなり、今ではだいぶ分かるようになってきた。
この聖典を読んでいて意味が分からないのは不思議でないが、不謹慎乍ら、これは大先生の間違いではないかと思ったことがある。それは「火」と「水」の火水の教えである。大先生は引く息は火で強力で、吐く息は火を包み込む水でやさしいと教えておられる。しかし、実際の技の息づかいでは、息を吐いた方が強い力が出、吸う息では強い力が出ないと実感する。故に、大先生はここで「火」と「水」を取り違われたのではないかと思ったのである。不謹慎この上もないことである。
吐く息が火での稽古は大分長い間続いたが、やがて引く息が火に変わった。強力な力が出るようになり、それまでの吐く息の火の力と質量ともに比べ物にならない力である。
腹の息づかいである。布斗麻邇御霊の伊邪那岐と伊邪那美の息づかいである。これで息を引けば強力な力、火の力が出るのである。
大先生の教えには間違いが無かったわけである。大先生の教えには逆らってはならないという事である。しかし、最初の吐く息の方が引く息よりも大きな力が出ることも事実である。だから、多くの稽古人は吐く息主体で技をつかっているのである。
この違いはどういうことなのか、どこにあるのかということになる。
簡単に言えば、吐く息が火となるのは口中の息づかいだからである。口で吐いたり吸ったりしているのである。一般的な人の息づかいである。これが肉体主動で技をつかう魄の稽古ということになる。吐く息が主となる。だから、ちょっと激しく動くと息がハアハアゼイゼイするし、大した力も出ない。
引く息が火となるためには口ではなく、腹で呼吸しなければならない。腹を膨らませて息を引き、腹を萎めて息を吐くのである。腹中の収縮での息づかいである。
口呼吸から腹呼吸に変えなければ合気道の精進はない。例えば、気が生まれず、気がつかえないからである。
それでは、口呼吸から腹呼吸に変えるためにはどうすればいいかである。
それはこれまで言ってきたように、まずはイクムスビの息づかいで技をつかえばいいと考える。イーと息を吐き、クーで息を引き、ムーで息を吐いて技を収めるのである。はじめは口でイクムスビの息づかいやるが、段々と口から腹に変わり、腹でやることになるはずである。
イクムスビの次には布斗麻邇御霊の息づかい(水火)になるが、まずはイクムスビから入ればいいだろう。
そしてその内に、大先生の水火の教えの正しさ、それを疑い、逆らった己の愚かさが分かると共に、引く息「火」の威力に感動するはずである。
因みに、口から吐く息が火の私のイメージは「火を吹くドラゴンで」(下図左)であり、腹で引く息の火のイメージは「波」(下図右)である。