第955回で『魂への挑戦』を記したが、また少し進展したようなので続きを書くことにする。
何が進展したかというと気の力よりも大きな力が出るようになったのである。その気の力より大きな力こそ魂の力であり、魂であると思うからである。
合気道の技をつかう際、三つの力がある。一つは魄の力、肉体主動の力。二つ目は気の力。三つ目は魂の力である。合気道は魄の力から気の力、そして魂の力で技をつかうように教えていると思う。魄→気→魂と次元が上がっていくわけである。つまり、魄の力より気の力は強力であるということである。ということは魂の力は気の力よりも強力でなければならないことになる。これまでこれがわからなかったのである。実感できなかったのである。
しかし、ようやく魂の力は気の力より断然強力である事がわかった。つまり、それを技で示す事ができるようになったと実感できるようになったのである。また、何故、気の力より魂の力の方が強力なのかもわかった。
これまでも道場での相対稽古で気の力によって大抵の相手を制することができたが、まだ、不十分、不完全と思っていたが、最近、布斗麻邇御霊を言霊“あおうえい”や息陰陽水火でつかうことによって、気以上の力が出る事を自覚するようになったのである。そしてこの気よりも強力な力を出すものこそ魂であろるはずだと思ったのである。
気の力の気は十字から生まれる。縦と横と縦の十字である。息と体を十字々々につかう事によって生まれる気であり、気の力である。この気の力は肉体(魄)の力より強力だが完全ではない。気に留まっている間は気の力こそ完全であると思うが、魂を知ればそれは完全でない事がわかってくる。物事は対象物がないと分からないものである。
魂と比べると気の力は不完全とわかる。気は縦横十字から生じるが、まだ人為的、意識的である。イクムスビの息づかいで手足体をつかって技を掛けるが、まだ魄の匂いがする。故に、大先生は、気力は魄力だといわれているのだとようやく納得できた。
それでは魂はどうかということになる。まず、相対で技を掛けているとき、まだ一瞬であるが、こちらが投げようとか抑えようとかしないのに、相手が独りでに浮き上がったり、動いたり、倒れたりするのである。気と違って人為的、意識的でない技が生まれるのである。
そこで、このこちらが何もしないのに働いてくれるモノこそ魂であると思ったのである。また、この魂は神といっていいだろう。合気道では魂は神であると教えているがこのことであろう。つまり、この無意識、無作為、非人為で働いてくれるのが神であり、その技を神業というのである。大先生が、合気道は魂の学びであるといわれているのは神業をつかえるようになれということだと考える。神様が働いてくれやすい身体をつくり、息づかいをしろというのだろう。
それでは、神業がつかえるよう、魂が働いてくれるようにするのはどうすればいいかという事になる。大先生や有川先生はどうされたか知らないが、私の場合を記す。私の場合は出来るだけ大先生の教えに反しないように修業しているつもりなので、大筋では同じだと思っている。
まず、大先生が、「フトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません」と教えておられるように、布斗麻邇御霊を身に着け、布斗麻邇御霊で技をつかうことである。
因みに、この大先生の教えの「技を生み出して・・・」の技は魂の技である。つまり、魂の技を生み出すためには布斗麻邇御霊によらなければならないということである。
布斗麻邇御霊で技をつかい効果が現われるまでには1,2年掛かっただろう。容易ではない。それにまだ不完全なので更なる修練をしているところである。
布斗麻邇御霊が身について来ると技は変わってくる。気の力とは相当違う。それも当然である。布斗麻邇御霊は天地の力、神の力であるからである。人の力などとは比べ物にならないはずである。
しかし、頭ではそうは分かっていても、気の力より大きな力が中々出てこないのである。だが、その内に、息陰陽水火で技をつかわなければならないという教えに会い、布斗麻邇御霊でこの息陰陽水火で技をつかうと気の力以上の力が出てくるようになったのである。つまり布斗麻邇御霊と息陰陽水火が一緒になり、共に働くことによって強力な力、本来の力、魂が働くようになったのである。言うなれば、布斗麻邇御霊は体、息陰陽水火は用の体と用の表裏一体化である。
魂が生まれるためには布斗麻邇御霊と息陰陽水火が大事であるが、もう一つ大事なモノがある。それは気である。気を生じ、気がつかえなければ布斗麻邇御霊も息陰陽水火もわからないし、つかえないのである。まずは、イクムスビの十字で気を生み、気を練らなければならない。但し、イクムスビの息づかいは口中でなく、腹中でたり、腹を鍛えなければならない。
前回の魂への挑戦で、大先生は魂について次のように教えておられると書いた。