【第945回】 合気道とスポーツの最大の違い

大先生は、合気道は勝ち負けにこだわるスポーツとは違うと言われていたし、勝負や試合は厳禁とされていた。更に、「スポーツとは、遊技であり遊戯である。魂のぬけた遊技である。魄(肉体)のみの競いであり、魂の競いではない。つまりざれごとの競争である。日本の武道とは、すべてを和合させ守護する、そしてこの世を栄えさせる愛の実行の競争なのである」(武産合気P.79)と辛らつな言葉でスポーツを評されていた。当時は、スポーツをこれまで評されなくともいいのではないかと思ったほどである。
私は中学校、高校とスポーツに明け暮れた生活をしたこともあって、スポーツの良さも厳しさも知っていた。試合に勝つための練習や試合の緊張は合気道の稽古どころではなかった。だから、合気道を始めた頃はこんなものかと合気道をなめ、止めようかと思ったほどである。

しかし合気道に試合や勝負がないことは大いに評価していた。何故ならば、勝負や試合の馬鹿らしさが分かっていたからである。勝負、試合は強い者が勝ち、弱い者が負ける。勝った者が強く、負けた者は弱いだけである。また、勝った者はいつか負ける。永遠に勝ち続けることは出来ない。スポーツにはこの方程式があるということが分かっていたわけである。

それでは合気道はどうかというと、合気道にも問題がある。スポーツは勝負や試合のための稽古で力がついていくわけだが、合気道は、勝負をしない相対稽古ではなかなか力が付かないことである。合気道の稽古を長年続けて行くとそれなりに力がつくが、スポーツをやっている人や力がある一般人から見て目を見張るようなものではない。そして60余年稽古してもこんなものかと悶々していた。
しかし、突然この悶々の霧が晴れた。合気道は大先生が云われた通り全然違う事が分かったのである。悟りといっていいだろう。
年を取って体は若い時ほど効かなくなって力も出ないのだが、これまで以上の力が出るようになり、技も効くようになったのである。スポーツをやっていたとしたら、老いを感じるだけで、この感覚は味わえないだろう。

スポーツはどんな名選手でもある年齢までしか活躍できない。年を重ねるほどに体力、力、運動力は減退する。これは宇宙の法則であると考える。
これに引きかえ、合気道は年を取れば取るほど力がつき、上手くなれる可能性があるということである。勿論、合気道を稽古しているみんながそうなるとは言えない。合気道の教えに従って修業しなければならない。

スポーツは、年を取ると力が衰えるのは、合気道で云う魄の力の世界だからである。それを図で示す。

合気道も魄力(力、体力)はスポーツの世界同様、年と共に減退する。しかし、合気道では、その減退分を補い。超過する力が養成されるということなのである。腕力(魄力)とは異なる、そしてより強力な力である。それは気力、そして魂の力である。力の大王といわれる気力と神の働きである魂の力を産み出すことによって魄の力に変えていくのである。これを図で示す。
魄力は有限であるが、気力と魂の力は無限である。また、魂の働きこそが神の働きであり、この技を神業といい、この神業が生まれるように修業するのが合気道であり、合気道修業の最終目標であるといわれる。故に、合気道は魂の学びであるといわれると考える。この事は、敵がどうのこうのとか、敵に勝とうとかという相対的な修業ではなく、自分を昇華し、精進するための修行、つまり自分との戦いに没頭しなければならない。
大先生も有川定輝先生も、また、現在も活躍されている多田宏先生も年を取れば取るほど強くなられておられるのは事実である。その理由はこれで解明できるだろう。

これが合気道とスポーツの最大の違いであると実感した次第である。これで大先生のスポーツは駄目だ、勝負や試合は禁止のご本心が納得出来たようである。