魂に挑戦している。四苦八苦しているが少しずつ魂に近づいているようである。1000回までのこの論文も残すところ50回余りになるが、この論文を終結するまでには目鼻がつきそうである。
魂が少しずつ解明され、この巨体に近づいている根拠の一つは、気というものが分かり、気の技がつかえるようになってきたことである。もう一つが、これまで繰り返して読んでいる『武産合気』『合気神髄』の中での魂の大先生の教えがわかってきたことである。これまで分からなかったし、その重要性に気がつかなかった箇所に気がついたことである。お陰で魂に大きく近づいたと実感したというわけである。
その教えの一つの箇所が「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせなのです。剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬるの執着を断ち、神様におまかせの心でなければならない。」(武産合気 P.36)である。
何故、この教えが魂の教えになるのかを説明する。
「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせなのです。」の本旨は、死の覚悟ができているからいつ死んでもいいという消極的な意味ではなく、いつでも来い、いざという時は神様が現われてやっつけてくれるのだ。だから神様にお任せしているのだという意味と思う。
敵が突然打ち込んできたり、殴ったり、掴んできてもそれに即対応し、制してしまうのである。それを大先生は実際にやって来られた訳である。頭で考えてのことではなく、修業の結果からの実体験なのである。
ここでピンときたのは、この神こそ魂だろうということである。合気道は魂の学びと云うのは、この神の魂に働いてもらうための修業ということになるだろう。
しかし、神様は容易には働いてくれないのは承知のごとくである。大先生は「頭でいくら判っていても実際に行えなくては何もならないといわれている。」
それではどうすれば神(魂)が働いてくれるようになるかということになる。
それは神様の働きに邪魔となる体と心の罪、穢れを祓い、禊をすることであるという。これを大先生は、「合気道の技の形は体の節々をときほごすための準備です。これから六根の罪けがれをみそぎ淨めていかなければなりません。」(武産合気P.37)と教えておられる。
まず、体の禊ぎである。そのために合気道の技の形を繰り返し々々稽古し、体のカスを取り去るのである。強い弱い、勝った負けたが稽古ではないということである。
そして六根の罪穢れを清めていくのである。眼・耳・鼻・舌・身・意(心)、つまり全身・全器官と心を清めるのである。
合気道は禊であるという意味がここにあるわけである。
これで合気道は禊ぎであると合気道は魂の学びであるが結びついたわけである。
技をつかうにあたって、それまで気が働いていたのに変わって、気に変わった何ものか働いている感覚になることがあるが、それが神様であり、魂であるかも知れないと思うのである。
また、詔を唱えると、意識しなくとも祝詞の言葉が出てくるのも神の働きであり、魂と関係あるのではないかと感じているところである。