【第92回】 「わざ」は自分の表現

ひとは自分の考えていることを他人にも分かってもらえたらうれしい。また自分の中にあるものを表現できたらすばらしい。絵を描いたり、作曲したり、詩や小説を書くのは、みんな自分の、または自分の中にあるものの表現であり、それが優れているひとは歴史上に名をとどめ、またプロとして評価されるわけである。

しかし、自分を表現するのは容易ではない。何かを表現したくとも表現するものがないとか、表現しても他人がなかなか分かってくれないとかあるだろう。この意味で合気道を修行している人は幸せである。

合気道では相対稽古にしろ、一人稽古にしろ、自分を「わざ」(技と業)で表現することになる。自分が意識していなくとも、自分がアウトプットするものは「わざ」に現れるので、その「わざ」から上手下手だけでなく、その人がどんな人で、どんな考えを持っているのか等も判断されてしまうことになる。それ故、場合によっては負の評価になるので、注意してやらなければならない。 

また、どんなに高尚な考えをもっても、それを合気の「わざ」で示せなければ、まだその高尚の考えも、示した「わざ」程度にしか分かっていないことになる。思想・哲学のない「わざ」は、真の合気道とは言えないだろう。例えば、合気道の精神は「愛」ということならば、「愛」を表現する、「愛」を含んだ「わざ」でなければならない。「愛」がなければ、どういう「わざ」になるのかも分からなければならない。「他人の仕事の邪魔をしない」ということなら、邪魔するということはどういうことなのか、邪魔しないためにはどうするのかを、「わざ」で示せなければならない。

合気道の修行は、合気道の形と「わざ」を繰り返すことである。その中から合気道の思想や精神がわかってくるようになるし、さらに自分自身の事もだんだん分かるようになるものだ。開祖も「合気道を体得すれば自己を知る」と言われている。

合気道は気育、智育、徳育、体育、常識の涵養とも、真善美の追求などとも言われる。人は万人万様であり、生き方、人生観、価値観など皆違う。合気道の稽古を真にしたければ、自分の生きる目標、自分をどうしたいのか、自分の合気道の目標などを持つよう、努力しなければならない。目標がなければ進むべき方向が無いわけだから、「わざ」で表現するものは無いわけで、ただ手足をばたばたすることになってしまう。

目標が定まれば、その道を進めばいい。そうすれば「わざ」は自分を表現するものになるわけである。「わざ」で表現できるようになれば、稽古以外の日常の場での立ち振舞いでも、自分が表現出来るようになるだろう。