【第90回】 今日変わらなければ、明日も変わらない

稽古事は時間がかかる。終わりということはない。しかし長くやれば上達するかというと、そうでもない。上達の速度は、人によっても違う。能力と努力と運によるからだ。能力と運は自分ではどうしようもないが、努力は誰でもできる。だから、努力をするしかない。

上達するために努力をするわけであるが、上達とは何に対してなのか、上達の目標とは何なのかを定めないと努力はできない。若いころは相対稽古で、どんな相手にも負けないように、少しでも強くなることが目標だったが、中高齢者になると、これが目標ではなくなってくるはずだ。勿論、合気道は武道であるから、弱くては意味がない。また、当然時間とともに強くなっていかなければならない。しかし、強いのは修行のプロセスの結果にでるものであって、目標ではなくなるということだ。

高齢者の稽古の目標は、人によって違ってくるだろう。健康であったり、自分探しであったり、神秘体験であったり、人類や地球のため等々であろう。合気道でこれらの目標を達成したり、その目標に近づけくようにするのは、合気道の形とわざの稽古を通してである。そして、自分の目標、対象物が得られたり、分かるようになるのは、自分の合気道の形とわざのできる程度であると言える。わざが出来なければ、求める対象物もそれだけしか得られていないということである。

目標はゼロ地点から始まり、少しづつ近づいていく長い道のりである。その道のりは直線Y=aXではない。言うなれば階段状である。一生懸命に稽古をしても、なかなか上達しないでいると、或る時、急に上達して次元が変わるときがある。その繰り返しである。

この階段を上がり、次元が変わるためには、弛まぬ努力が必要だが、大事なことは、その努力を通して、毎回の稽古、一日の生活で何か変わらなければならないということである。新たな発見、今まで分からなかったことが分かったり、今までできなかったことが出来る等である。どんな小さいと思われることでもよい。それを大事にしていくことだ。何故ならば、どんなに小さい、些細と思われることでも、無限の重要性と可能性をもっているからである。例えば、ある形(かた)で出来た「わざ」は、他の形でも、また恐らくはすべての形でも活用できるはずなので、無限の価値がある訳である。そして、この些細な発見がある程度まとまると次元が変わり、階段を一段登れることになる。

新しい発見は稽古だけではない。日常生活の中でも発見をしていかなければならない。合気の稽古の心構えがしっかりしていれば、日常生活での発見もできるようになる。

今日の自分は、昨日と同じであってはならない。今日変わらなければ、明日も変われないだろうし、10年後も変われないかもしれない。自分が変わることは感動である。この感動があるから、明日も稽古を頑張ろうと思うし、生きる張りができる。そして長生きしたいとも思うし、長生きできることだろう。明日、来年、10年後に自分が変われるように、今日、変わることである。