【第892回】 若者に魅力ある高齢者

合気道を大分長い間稽古している。先輩や同期の仲間は年々顔を見せなくなり、高齢の稽古人は非常に少なくなってきている。寂しいかぎりである。寂しいというのは、本来、長年稽古を積んだ高齢者の稽古人がもっといてもいいし、いるべきだと思うからである。
それでは何故、長年稽古をした高齢者がやめていってしまうのか、彼らが合気道の稽古を止めずに続けるにはどうすればいいのか、そしてまた、高齢者が稽古を続ける意味はどこにあるのかを考えてみたいと思う。

高齢になって合気道をやめてしまう原因は、魄の稽古から抜け出せないことである。勿論、魄の稽古で体をつくり、力を養成することは大事であるが、その次元の稽古から抜け出せないのである。年を取っていけば、後輩であった若者に適わなくなり、それまでのように稽古が楽しくなくなるわけである。病気や怪我や仕事の関係などをきっかけとして道場に来なくなるという訳である。
日常生活に於いても、世の中は物質文明の競争社会である。若者主流で高齢者は表舞台から外れているのである。魄の稽古からの脱出は難しいのである。
その典型的なのはスポーツの世界である。スポーツは若者文化であり、高齢者が活躍する舞台ではない。

このような物質文明・競争社会から脱出するために合気道をやるわけだが、まずはこのことを再自認する必要があるだろう。そして合気道は魄の稽古から魂の学びの稽古に変えていくのである。魂の学びは高齢者の領域であり、 年を取りある程度の経験の積み重ねが必要なのである。

次に、高齢者が稽古を続ける意味であるが、これは非常に重要であると考える。高齢者が稽古を続けているだけでも周りの若い稽古人達に、年寄りが頑張っているのだから若い自分はもっと頑張らなければならないと思って、稽古に励むはずである。また、もし、高齢者の稽古人が、例えば、無駄のない動き、自然な技づかいなどをしていれば、自分もそうしたいし、どうすればいいのか等考えるだろうし、その高齢者、さらに高齢者一般に尊敬の念を抱くのではないだろうか。若者に教えるのもいいだろうが、何も語らずにただ見せる教えもいいだろう。
高齢者が若者に一目置かれるようになれば、若者は自分もあのような高齢者になろうと思うだろうし、そのためにいろいろな勉強や経験を積み重ねようとするだろう。高齢者に一目置くようになれば、高齢になる不安はなくなるし、もしかすると早く年を取りたいと思うだろう。

合気道で若者にやる気を起こさせ、合気道界をさらに活気づけることができるのは高齢合気道家であると考える。そしてまた、この世の中を活気づけることができるのも高齢者であると考える。若者はこの先どのように生きていけば迷っているわけだが、高齢者が楽しく、生き生きと生きていれば、若者は年を取ることに不安がなくなるし、楽しみになるだろう。そのために今をしっかり、楽しく生きようと思うはずである。高齢者が元気がなく、不健康で、人生を楽しんでいなければ、若者に先の生きる楽しみを無くしてしまうわけである。
合気道のためにも、また、世の中のためにも若者に魅力のある高齢者にならなければならないと思っている。