【第891回】 基本にもどる

「第889回 二代目道主の偉業」で書いたように、基本にもどることにする。“基本にもどる“には幾つかの意味・解釈がある。一つは、これまで研究し稽古をしていた目に見えない次元(幽界・神界)から目に見える次元の顕界・現界にもどることである。二つ目は、気や魂から魄の稽古にもどることである。魄は大事である事を実感したので、再度体を鍛え、体のつかい方を研究、稽古するのである。三つ目は、合気道の基本技をもう一度研究し、身につけることである。自分はできていたつもりだったが、よく観察するとまだまだ未熟、不完全であることがわる。

そこで「第889回 二代目道主の偉業」にも書いた『合気道技法』を勉強することにした。勿論、何度か目を通しているわけだが、その大事な教えは身に着いていなかったし、頭にも残っていなかった。今、読み始めて見るとその教えの素晴らしさがよくわかる。大先生のあの難解な『武産合気』『合気神髄』に挑戦したからだろう。つまり、ある程度のレベルにならなければ、『合気道技法』もその価値がわからないだろうということである。

さて、『合気道技法』のはじめの「総説」のところで早速重要な教えに出会ったので、今回はそれを書く。
その文章は、「しかし申すまでもなく、理論とか基本技とかいうものは、その道に進むため必要欠くべからざる方式であるけれども、それが真の本体ではない。修業者は先ず一意専心、理論を究め基本技を練り、究めつくし練りつくした結果遂にそれら一切にとらわれず、いわゆる“心の欲するところに従って矩を超えぬ“境地に到達するのである。そして又、一度この境地に達した人といえども、矢張り常に営々孜々として基本技の練習をおこたらず、以て人間の弱点たる放恣、無規道に免脱転落することなきよう深甚の心構えがなければならぬ、一面よりいえば、基本技はその使い手によって癒着したものとなり、又自由極まりなき自然の表現ともなるのである。かくして、精進向上の道程はどこまでいっても極まるところを知らぬ。」(合気道技法 P.16)である。

この文章の教えの要点は、

  1. まずは合気道の理論を究め、合気道の基本技を練り身につけなければならない。魄の稽古である。魄の稽古をしっかりやれということである。基本技を覚え、体をつくり、体力、気力を養成するのである。しかも只やるのではなく、一意専心、理論を究め基本技を練り、究めつくし練りつくさなければならないのである。
  2. 今度は、これらにとらわれず、心の欲するところに従って矩を超えぬ“境地に到達する。これは意識しなくても、無意識で自然に技が出るということと解釈する。所謂、魂の稽古、魂の学びである。これは数年では出来ないだろう。30年、40年、50年は掛かるはずである。
  3. これが出来るようになったら、また、基本技にもどって練習しなければならない。一教から四教、入身投げ、四方投げ、小手返し、呼吸法等が理合いでつかえるようにするのである。意外と自分が出来ていない事がわかるものである。
  4. これによって、基本技が身体に癒着し(身につき)、そして技が自由に出るようになる。
  5. これを繰り返して精進するわけだから、合気の道に極まりがない。
この教えは合気道を始めるにあたって心得るべきだが、初心者には難解のはずである。しかし、一度、読んでおけばいずれこの教えにもどってくるだろう。
二代目吉祥丸道主が、この教えは高段者や古株の稽古人に言われているように思われる。私自身にもいい教えであり、教訓である。これから基本にもどって稽古をすることにする。