「第889回 二代目道主の偉業」で書いたように、基本にもどることにする。“基本にもどる“には幾つかの意味・解釈がある。一つは、これまで研究し稽古をしていた目に見えない次元(幽界・神界)から目に見える次元の顕界・現界にもどることである。二つ目は、気や魂から魄の稽古にもどることである。魄は大事である事を実感したので、再度体を鍛え、体のつかい方を研究、稽古するのである。三つ目は、合気道の基本技をもう一度研究し、身につけることである。自分はできていたつもりだったが、よく観察するとまだまだ未熟、不完全であることがわる。
そこで「第889回 二代目道主の偉業」にも書いた『合気道技法』を勉強することにした。勿論、何度か目を通しているわけだが、その大事な教えは身に着いていなかったし、頭にも残っていなかった。今、読み始めて見るとその教えの素晴らしさがよくわかる。大先生のあの難解な『武産合気』『合気神髄』に挑戦したからだろう。つまり、ある程度のレベルにならなければ、『合気道技法』もその価値がわからないだろうということである。
さて、『合気道技法』のはじめの「総説」のところで早速重要な教えに出会ったので、今回はそれを書く。
その文章は、「しかし申すまでもなく、理論とか基本技とかいうものは、その道に進むため必要欠くべからざる方式であるけれども、それが真の本体ではない。修業者は先ず一意専心、理論を究め基本技を練り、究めつくし練りつくした結果遂にそれら一切にとらわれず、いわゆる“心の欲するところに従って矩を超えぬ“境地に到達するのである。そして又、一度この境地に達した人といえども、矢張り常に営々孜々として基本技の練習をおこたらず、以て人間の弱点たる放恣、無規道に免脱転落することなきよう深甚の心構えがなければならぬ、一面よりいえば、基本技はその使い手によって癒着したものとなり、又自由極まりなき自然の表現ともなるのである。かくして、精進向上の道程はどこまでいっても極まるところを知らぬ。」(合気道技法 P.16)である。
この文章の教えの要点は、