【第891回】 合気道はみそぎである

これまでも何べんとなくこの「合気道はみそぎである」に挑戦してきた。しかし、今思えばよく分かっていなかった事がわかる。修業を続けてきたお蔭でこのテーマも少し分かってきたので記すことにする。

まずこのテーマ「合気道はみそぎである」事の重要さを改めて実感していることである。「合気道はみそぎである」教えに則った稽古をしなければ、上達が止まるだけではなく、体を壊すことになることが明白になったからである。周りを見るとそれが事実だとよくわかる。これも年を取ってきたお蔭だろう。
年を取ってくると若者には力では敵わなくなってくる。これは自然の理である。しかし、武道の稽古を続けて行くわけだから、上達し続けなければならない。稽古を続けて上手くならなければ稽古を続ける意味がない。力が弱くなるのは自然の理であるから、これに代わるモノで、そしてそれ以前より強くならなければならないわけである。力が落ちてきた当初は力をつければいいと鍛錬棒を振ったり、腕立てをしたり、山登りやジョッギングをしたが、若者の力には追いつくものではない。それまでの延長上での稽古では駄目だという事である。
そこで合気道の稽古の質を変えなければならない事に気づいたわけである。これに気づかなければ、それまで通りの力に頼る、魄の稽古を続ける事になり、そして体が動かなくなるだけである。

この質を変えた稽古こそ「みそぎ」なのである。これまでは所謂、魄が表に現れていた稽古であったのを、みそぎの稽古、みそぎ技の稽古をするのである。これまでの相手を倒したり、決めるための技をみそぎにつかうのである。禊ぎ技が禊ぎそのものとなり、これが合気道はみそぎであるということになるわけである。
しかし、みそぎの合気道を稽古するのは容易ではない。これまでの目に見える顕界・現界の次元の稽古ではみそぎにならないからである。みそぎの稽古になるには、みそぎの場となる幽界での稽古をしなければならないのである。幽界がみそぎの場なのである。

この顕界の合気道を、大先生は武産合気(真の合気道)の準備段階の合気道と言われているのである。合気道を長く続ければいいというわけではなく、合気道から真の合気道の合気道をやらなければならないということである。
顕界の稽古は、沢山やったり休んでもいいだろう。が、みそぎの稽古は修業であり、毎日続けなければならないと自覚してやっている。毎朝、やり続けている。道場稽古と違い、相手は自分自身である。自分との戦いともなる。自分に負けないよう、少しでもレベルアップしようとしていると何者かが助けてくれ、導いてくれるようになる。この摩訶不思議を実感する日々であり楽しいものである。故に、みそぎの合気道は年を取っても出来るし、年配者には有利であると思う。大先生も、「禊ぎは、はじめに述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、禊をして精神の立て直しをすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々、必ず修業してほしいと思う。(神髄P.152)」と言われている。
また、上記の教えにあるように、みそぎには二つあるようだ。一つは、「神技の始めに行ずるみそぎ」である。祈りとか舟こぎ運動のような準備運動である。これは一般的な意味でのみそぎであろう。
二つ目は、合気道の技である。橘の小戸の神業、禊の技である。悉く神代からのみそぎの技を集めた技の実行がみそぎそのものになるわけである。これは合気道独特のみそぎであると思う。

大先生は、「合気はみそぎであり、神のなさる世直しの姿である。・・・合気道の修業に志す人々は、心の眼を開いて、合気によって神の至誠をきき、実際に行う事である。この大なる合気のみそぎを感得して、実行して、大宇宙にとどこうりなく動き、よろこんで魂の錬磨にかからなければならぬ。(武産合気P103)」と合気はみそぎであり、みそぎを実行し、魂の鍛練に進んでほしいとみそぎが大事であると言われておられることで締めくくる。