【第889回】 呆け老人にならないために

80歳を超えると、自分も年を取ってきたと実感する。自分の歳など以前は気にもしなかったが、最近では大事にしている。いつお迎えがきてもいいように、一年々々、否、毎日を大事にするようになったからだろう。
周りにも多くの老人がいる。今は老人と云う言葉は禁句で、高齢者と言わなければならないようだ。高齢者は高齢者と超高齢者とに行政上は分けられていて、高齢者は75−89歳、90歳以上は超高齢者である。行政上は税金や保険などの関係で意味があるのだろうが、私的、個人的には関係ない。

一般的には年を取れば取るほど、人は老いていくわけだが、老いる速度や内容は人それぞれ違う。
身体も老人になれば衰えて来る。何もやらなければ加速度的に衰え、そして動けなくなる。身体が衰えるに従って、気持ちも萎えて来る。精気がなくなり、活動しなくなる。そしてお迎えとなるわけである。
その肉体的、精神的な衰えを抑えたり、減速させるためにも合気道の稽古はいい。気持ちを集中して、技を掛け合い、受け身を取って汗をかいて体と心を鍛え、禊ぐのである。
合気道の稽古をしている人たちは、巷で運動もしていない人たちに比べれば、同年齢のその人たちと比べれば老いていないはずである。これは当然で、何も不思議ではないし、問題はない。
しかし、問題は、合気道の稽古をしているのに、老いが早い人と、元気が続く人がいることである。老いてくれば、巷の呆け老人になってくる。
そこでその原因がどこにあるのかを考えて見る。合気道家として、合気道の教えに従って答えを出す。
まず、呆け老人とはどのような高齢者(75歳以上)なのかである。但し“呆け老人“の”老人“も”呆け“も現在では差別用語として禁句であるので通常は使えないが、身内などには使えるし、当分はなくならないといわれているので敢えてつかう事にした。また、自分への戒めとしてもつかう事にしたのである。
さて、“呆け老人”、取り分け合気道を稽古している、又はしていた人を頭に於いて定義してみる。呆けとは、知覚のにぶった状態になるとか、ぼんやりする状態である。
それでは、何故、合気道の稽古をしているのに呆けるのかであるが、稽古を今とここの稽古、また、過去の稽古をしていることである。今だけ上手くいけばいいとか、昔は俺は強かった、上手かったと思ってやる稽古をしていれば、肉体的、精神的に老い、そして呆けてくるということである。過去や今にしがみつくと老いるという事である。
もう一つ、自分に固執するもの駄目だと思う。
それではどうすべきなのかと云うと、未来志向の稽古をすることである。明日に繋がる稽古、今日は出来なくとも明日に期待する稽古、そして合気道が目指している遠い彼方に向かっての稽古である。

更に、自分のためだけでなく、後進・後輩のためにも稽古することである。道場の外の人たち、人類、地上・宇宙の万有万物のために稽古をするのがいい。合気道の目標は地上天国、宇宙楽園建設であるからである。宇宙の意志に則った稽古や生き方をすれば、支援があるはずである。呆けなどないはずである。

もう一つ大事な事は毎日稽古することである。老いてくれば、若い時のように長時間、全精力を傾ける稽古は出来ないから、日々稽古・修業するのである。これを合気道では禊といい、毎日、禊をせよと教えられている。何故、日々稽古・修業をしなければならないかというと、宇宙の運化・活動に休みはないからである。宇宙と一体化するためにも宇宙の運化・活動に合わせて稽古・修業をしなければならないわけである。
要は、合気道の稽古もただやればいいということではないのである。