【第886回】 気を練る

肉体的、物理的な技づかいに行き詰ってきたら、次は気を練らなければならない。何故ならば、気は力の本であり、力の大王でもあると大先生が教えておられるからだ。
しかし、気や気の働きはなかなか気がつかない。普通、気は目に見えないし、肌で感じることはない。気はあるが無いもの、つまり、幽の体というところである。故に、人に教えることは難しいから自得するしかない。
そこでどうすれば自得できるかということになる。結論は、意識して気をつかって修業していくと自覚するようになるし、つかえるようになるはずだという事である。稽古で後進たちを見ていると、時として気が出ており、つかっている人がいる。しかし本人はそれに気がついていないのが多いのである。

気を感じなければつかいようもないし、練りようもない。気を感じる最初のステップは気の出ている先生、先輩の受けをとるのが最良の方法である。気の摩訶不思議な力を体で感じる事ができる。勿論、気を意識して受けを取らなければわからない。
気を練っていくと、技をつかう時だけでなく、普段でも出るようになるようで、傍にいるだけでその気を感じたり、威圧されるものである。気が身についているわけである。大先生がそうだったし、有川定輝先生もそうだった。
気を感じ、摩訶不思議な力であるとわかれば、今度は自分で気を出す練習をすればいい。本来は技の錬磨によって気を身につけるのが合気道のやり方であるが、それだけでは難しいので、+αの稽古が必要になる。人によって、教える先生によって違うはずだが、私の場合は、次のような稽古をした。

  1. イクムスビの息に合わせて、息と手(体)を十字につかって気を生む。
    気は十字から生まれるとの教えがあるからである。息は吐いて⇒吸って⇒吐く、手は縦に伸ばして⇒横の拡げ⇒縦に伸ばすのである。名刀のようなしっかりした手ができるだけでなく、力が出て来るのである。この力が出る事が重要なのである。それまでは力は内に留まっているか、内に引っ張られているはずである。これがそれと逆方向に外に出るわけである。遠心力である。その外に出る力こそが気であると考えればいいだろう。
  2. このイクムスビの息づかいと体づかいで、体と技を十字々々につかい、気を生み出し、気で技を掛けていけばいい。片手取り呼吸法や諸手取呼吸法はこの気で掛けなければ、大きな力が出ない。
  3. 布斗麻邇御霊とあおうえいの言霊で気を生み、息と体と技をつかう。
    布斗麻邇御霊は水火の形であり、これで天地の気を知る事ができるという。布斗麻邇御霊の運化とあおうえいの言霊で気を生みつかっていくのである。これは以前に記したので省略する。
次に気のつかう方を研究してみる。今の所、次の二つがある。
  1. 渦をつくり、気を渦の中に入れてつかう。これは大先生の下記の教えによる。「合気は十分気を知らねばならない。武の気はことごとく渦巻きの中に入ったら無限の力が湧いてくる」(合気神髄p88)
    それでは、渦をつくるにはどうするかである。
    1)手の平を親指支点に十字々々(横の十字)に返す=円の動き 
    2)手を手先方に伸ばし、十字に横に拡げ、縦に伸ばす=縦の十字
    3)上記の①②で螺旋になり、渦がつくられる。1)だけでは平面的な円の動きである。また、1)と2)で手をつかっていくと気が出て来て、渦の動きを更に実感できるようになるし、それまで以上の力が出て来るようになる。
  2. 気を剛柔流でつかう 「気にも剛柔流の働きがある。そして動いている。」(武産合気P.100)
    気の力は魄力であるので、意識で強弱を調整できる。気を流れるように、柔らかく、そして強固につかうように、自由自在につかえるようにするのである。片手取り呼吸法でやってみるのがいいだろう。流の気でやれば、相手に触れただけで相手を結び付け導くことができるのである。
「合気は絶えず宇宙の精妙を吸収し、もの悉く同化し大霊に帰納する。技は動作の上に気を練り気によって生まれる。その気が全身にめぐり各器官たる全六根を浄め、天授の使命を完うする。又魂をその中におこし、磨き妙なる技を出し、又光を出し光となって、その光を地場として、魂は大霊に帰納し、技は妙なる技を出し、その道筋は七代の神のごみいず(御働き)のもとに八大力の気のみ働きを起こして、大なるみそぎ道となる。(武産合気 P.104)」の教えのように、合気は奥深い。気を練り上げ、技と光を出し、その中に魂が生まれるように修業を続ける事である。