【第880回】 体を知る

これまで『合気道の体をつくる』で体の事を書いてきたが、体の事はまだまだ知っていないことがわかった。しかし、体の事がまだよく分かっていないという事は反面救いでもある。まだ、満足できるようないい技がつかえないわけだが、体を知ればよくなる可能性があるはずだと考えるからである。

体を知る以前に、「知る」ということをはっきりさせたいと思う。また、「知る」と同じような意味で「わかる」「納得する」・・・等があるが、この意味と違いを知りたいと思う。これまであまり注意を払ってつかい分けてこなかったし、正直よくわからなかったので一度整理しなければならないだろう。
このように考えていた時にある本に出合った。その著者は私の敬愛する解剖学者の養老猛先生である。本のタイトルは『ものがわかるということ』(祥伝社)である。今回はこの本を基にして「知る」「わかる」の意味と体を知りたいと思う。

まず、「知る」とは、具体的なことを一つ記憶するということであるという。また、自分が変わることだという。例えば、合気道を知って、自分が変わったということであろう。「わかる」とは違う。「わかる」とは、その事を理解や把握をして物事の内容をはっきりと捉えられること、物事の理論や価値が理解できることは「解かる」、はっきりと見分けることは「判る」である。また、よくわかるとか、深くわかることは「納得する」という。これを古くは「腑に落ちる」と云った。「腹の底からわかる」ということであり、体を含んだ分かり方である。つまり、わかるは体であり、知るのは頭ということであろう。頭の中だけでなく、身体(目や手足)をつかうと具体的、分かり易くなる。つまり、体をつかわないと本当にはわからないということであり、わかるためには、体が予想以上に重要であるということである。
また、「わかる」とは、自分が変わることであるという。その根本は共鳴だという。自然や動植物、合気道もそうだろう。共鳴とは、二つの固体の固有振動数がたまたま一致したときに生じるという。合気道の技が上手く効くと相手と結び一体化する。これが共鳴するということだと考える。共鳴して「わかる」ためには、意識や理性を外すことであるという。合気道でも無意識にならなければいい技を生めない。

学習とは「身につく」こと、体につくことということで、体をともなってわかるわけである。ましてや合気道の稽古も身につけるものである。学習や稽古を身につけるためには、脳への情報入力と入力した総合情報を出力することだという。脳への入力は目、耳、手(触)、鼻、舌の五感で行い、出力は筋肉の動きや骨格筋の収縮の筋肉運動であるという。脳が外界に出力できるのは、筋肉の収縮だけ、筋肉労働しかないというのである。確かに、手足を動かすのも、話すのも筋肉運動で、脳からの出力である。合気道でも脳への入力が支障なくいくために、五感を禊がなければならないし、筋肉が働くために、入力した情報を上手く筋肉に結びつけなければならない。

人生も合気道も人をつくり上げていくものだろう。いうなれば、「個性」ができ上がっていくということだろう。一人一人違う人間になっていくということである。だが、「個性」とは、身体そのもので、心ではないではないという。身体を作るのは、遺伝子の作業である。その遺伝子の組み合わせは、一人ひとり違う。それが個性だという。但し、脳自体は身体なので個性はある。つまり、個性を出したければ体を錬磨することである。身体表現の完成した形を日本では伝統的に「型」とした。伝統芸能はすべて「型」の学びから始まる。茶道や武道の世界では、この型を極めた先に、ようやく個性がわかるようになる。その意味でも合気道は個性を出すのにはいい。

日本は体を大切にしている文化があり、体を重視して生きている世界だろう。
知識も教養も「身につけるもの」、「躾」(しつけ)も同じであるように、頭や心と云わずに、身(体)につけるのである。
これまで技をつかう際は体の声を聞けと言ってきたし、やってきた。
データや専門家に頼る以前に、自分の身体の声を聞く事である。他人の言う事には誤りがあるが、自分の身体からの声には偽りはない。自分の声が聞こえるようにするのは、自分が「まっさら」でなければならない。身体は自然なのである。

やらなきゃいけないことをやり続けると、型が身につく。何かが身についたら、自分は変わる。身体が個性だからである。そうやって変わる自分をつくっていく。変わった自分はいままでとは違った世界を見る。自分が変われば世界全体が違ってくるという。だから合気道も面白い。

情報は動かないけど、人間は変化する。情報と現実の人間との根本的な違いは、情報はいっさい変わらないけれど、人間はどんどん変わって行くことであるという。記号や情報は作った瞬間に止まってしまう。困ったことに、情報や記号は一見動いているように見えて、実際は動いていない。だから余計に、人間は自分の変化を感じ取りにくくなる。合気道も基本の型(情報)は動かないし、動かしてはならない。自分が動かなければならないということになる。型(情報)が体で身体が体である。自分の体をつかえということである。

体、身体を新たな支点から見る事ができたし、これまでの体に対する考え方とつかい方の確認ができたわけである。これは大先生が言われる科学と云う事であると思う。そしてこれで己の合気道の技が変わり、己自身も変わるのではなかと思っている次第である。


参考文献 『ものがわかるということ』(養老猛著 祥伝社)