【第880回】 気が働くと
合気道を始めた時から、合気道では気が大事であり、気で技を掛けるようにならなければならないと教わってきた。そして気を出せとか、気でやれ、気をつかえ等と言って稽古をしていたが、実際は、気というモノがどんなモノなのか、どのように働くのか等わからなかった。しかし、大先生の示される技は我々とは異質であったし、当時、本部道場で教えておられた藤平光一先生は気をつかえば、親指と人差し指でつくった輪を開くことができないと我々に試させたり、腕に気を通せば腕は折れない等を示して下さったし、また、強い先輩の手には引力があるかのように、こちらの手や体が引っ付いてしまうなど、これが気なのだろうと何となく思っていた。
それから50年ほど経ってようやく、多少気を生み出し、気をつかえるようになった。そして分かった事は、気をつかわなければ(真の)合気道にはならないということである。簡単に言えば、気をつかえなければ技を肉体主体の力で掛ける事になり、魄の稽古に留まるからである。技は身心を統一してつかわなければならないが、別々の身体と心を統一できるのも気なのである。更に、合気修業の最終目標となる宇宙との一体化をするためにも気が必須なのである。これを大先生は、「人間は心と肉体と、それを結ぶ気の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければならないと悟った。“気の妙用”によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである。」(合気神髄p178)と教えておられるのである。
多少ではあるが、気を生み出し、気がつかえるようになってきたわけだが、具体的に、ここまでで、気でどう変わったかを記してみたいと思う。
- 己の手が重くて軽くなった:相手が前に出した手の上に我手を置き、相手の手に軽く触れる。接点の手先に気を落とすと、相手はその接点に我全体重を受ける重さを感じる。また、我手を上に上げれば、我手は重力が無くなり羽のように軽くなる。そして気を入れればまた重くなる。
- 相手が前に出した手の上から我手を置くと、相手の手に密着し離れなくなる:我手が相手の手の上の場合は、腰腹からの気で相手の手に密着するのに不思議はないが、我手を上げる時も、相手の手が我手の上にあるにもかかわらず、密着して相手の手から離れなくなるのである。これまではその手は離れてしまっていたので、後は腕力をつかってつじつまを合わせていたことも分かった。例えば、片手取り呼吸法で内側への返しはいいが、そこから外側に返す場合、この密着が切れてしまい相手に頑張られてしまっていたのである。
- 体の動きが切れなくなる:肉体主体で技と体をつかうと、必ず動きが止まるところが出来る。技は一呼吸で納めなければならないわけだから、動きが切れてしまうのは不味い。
動きが切れずに収めるために、息をつかうのがいいと書いてきた。息で身体を導き、つかうのである。はじめは、イーと息を吐き、クーで息を引き、ムーで息を吐いて体をつかって動くのである。この息づかいを早く、遅くや大きく、小さくや強く、弱く等と自在にやるのである。
しかし、息づかいには限界がある。いつまでも息を吐いていることも息を引いている事も出来ない。この息が気に変わってくるのである。一生懸命に息で体と技をつかっているうちに、息が切れたところ、弱い所を気が代わりになってくれたり、補充してくれるようになるのである。気は自由で無限であるから切れることはないのである。
- 強力な力が出て来る:気は縦横十字や水火陰陽などから生み出されるわけだから、自分以外の力をつかうことになり、人間以上の力が出ることになる。諸手取呼吸法などで相手と同質の力では上手くいかず、争いになってしまう。気は魄力とは質と量が違う力をもっているということである。
- 技が自由自在に出る:気は切れないし、相手と密着し離れることもないので、技が自由につかえるし、技から技に自由に移り変わる事もできる。動けば即技といわれるのはこの事だと考える。
まだ気については始まったばかりなので十分身についていないと思う。これから更に研鑽し気の力、気の妙用を身につけて行きたいと思っている次第である。
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