【第87回】 武道は孤独

道場は、神聖なところである。日常の生活の舞台である顕界「ケ」の世界ではなく、「ハレ」の世界、幽界でなければならない。仕事や家庭などの俗世を道場に引っ張りこんで、顕界の延長上で稽古をしても上達はない。

道場でも、仲間同士で俗世のことを話す者が多くなってきているのは残念である。スポーツクラブと勘違いしているのではないだろうか。どうも最近の日本人は、じっと黙って考えることが出来ないようだし、人の騒いでいるところに集まりはするが、自分で興味あるテーマを見つけたり、問題を解いたりするのは苦手なようだ。多くの人が話題にしていることに興味を持つ、所謂、付和雷同型になってきている。自分以外の周辺のものに振り回されて、自分では物事を深く考えず、自分がやるべきこと、やりたいことが分からないだけでなく、自分を失っているように思える。

合気道の修行を本当に続けようとすれば、よほど注意しないと上達、進歩はできないだろう。まず合気道の体をつくるにしても、自分の弱点と強い部位を知り、弱点を克服し、強いところを伸ばし、自分の体のランクアップを図らなければならない。このためには他人に惑わされない、しっかりした気持ちをもつことが必要だ。自分を一番よく知っているのは、自分本人である。他人の意見は参考にはなるが、判断していくのは自分本人だけである。それは孤独な作業である。

武道は、本質的に孤独なものである。みんなでわいわいガヤガヤやっているようでは、本当の修行にはならない。一人でなければ、武道に深く入ってはいけないし、真空の気からの知恵やエネルギーを得ることはできない。武道の上達の多くは「ひらめき」である。「ひらめき」を得る環境は、孤独でなければならない。わいわいガヤガヤからの「ひらめき」もあるだろうが、それは俗世のもので、宇宙万世一系の理合から外れたものだろう。

物事を深く考えるには、孤独がよい。合気道のように奥の深い思想、哲学があるものは、特にそうである。合気道がどれだけ上達したかということは、どこまで深く宇宙万世一系の元に近づけたかということであるので、宇宙万世一系という本流を見つけ、その源に遡らなければならない。道場とは、そのための修業の場である。よほど心して修行していかなければ、遡ることはできない。本流という流れはあるはずだが、見えるものでもないし、他人には教えられない。自分で感じ取っていかなければならないのである。  

孤独の稽古をしていると、邪魔が入る。いわゆる「悪魔の声」といわれるもので、本流の流れから亜流に引っ張り込もうとする。他人のわいわいガヤガヤは、大体がそれである。さらに、自分のこころから沸いてくる「悪魔の声」もある。相手をパワーで倒そうとか、強いところを見せようなどという「声」である。

孤独な稽古をすれば、この「悪魔の声」と戦わなければならない。孤独な戦いである。この戦いが最も大変な稽古といえるかも知れないが、また最も大切な稽古だろう。深く稽古をしていくと、「悪魔の声」を防いでくれる「声」が出てくる。これは、合気が上達するための知恵でもあり、ヒラメキである。これは「真空の気」から出てくるのだろう。

何もなかった大宇宙には、地球や人間や武道、技術を創造するエネルギーや知恵が充満している。この「声」を聞くのも大切な稽古である。よほど俗世のことを忘れ、稽古に深く入っていかないと、その「声」は聞こえないものだ。

合気道の修行は、孤独に耐えなければならない。武道は孤独である。