【第87回】 相手が喜んで倒れる

合気道の道場稽古では、通常二人で組んで取りと受けを交互にやっていくが、稽古は試合でも争いでもないのだから、基本的にはお互いが相手に受けを取ってもらっているということができよう。それ故、稽古の始めと終わりは高段者であっても、初心者に頭をさげて礼をするのである。普通、高段者なら初心者に教えるものはあっても、学ぶものはないという意味においては、頭を下げることもおかしいだろうが、受身を取ってくれること、自分の考えていることを試させてもらえること、そして反面教師で勉強になるという意味でも感謝し、礼をするわけである。

極端に考えれば、「わざ」の稽古は一人でやっても上達が難しいのであるから、稽古相手がいてくれることに感謝しなければならない。砂漠の中、月の上で、たった一人で稽古をしようと思っても、生きた「わざ」の稽古にはならないだろう。「わざ」は人がいて、稽古相手がいるから練磨し、上達できるのである。

だから、受けを取ってくれる稽古相手を壊したり、痛めるのはもってほかである。若いうち、初心者のうちは、お互い無我夢中なので、ケガもあるだろう。若い内は、ケガになる限界ぐらいまでやらなければ、上達もないだろうし、エネルギーが発散できなければ、稽古に満足できないだろうから、多少のことはしょうがないかもしれない。しかし、高段者になれば、ケガをさせるような技の掛け方はよくない。相手は自分のために受けを取ってくれているのだから、感謝して倒さなければならない。自分が強くて上手いから、相手は受けを取ってくれているわけではない。もし相手が何かの調子で本当に受けを取るのを拒否して、死に物狂いで頑張ったら、合気道の技で倒すのは容易ではないはずだ。

人間である以上、程度の差こそあれ、誰でも闘争心はある。取りの方は何とか技をかけて倒そうとするし、受けの方は時として倒れまいと頑張ったりする。通常は一緒に稽古をすると、お互いどちらが上手いか下手か、強いか弱いかが分かってくるので、弱い方が頑張るということはあまりなくて、受けを取って倒れてくれる。しかし、問題は受けを取っても、その受けを満足して取ってくれているかどうか、ということである。相手が受けを取って倒れているからいい、ということではない。ときには途中から頑張ってくる場合などもあるが、それは相手がこちらの「わざ」に満足していないからだろう。

開祖は、「真の合気の道は、相手を倒すだけでなく、その敵対するところの精神を相手自ら喜んでなくさしめるようになさねばならぬ。和合のためにするのが真の和合であって、地上に現れたものと、その精神とが一如となって和合するように日々稽古しなければならぬ。」(合気道新聞54号 道文)といわれている。

合気道では、相手が和合して喜んで倒れるようにならなければならない、ということである。つまり相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れたくなり、倒れていくようにする、ということであろう。相手が倒れるためには、まず和合するために技をかけるが、技を掛けて相手が崩れたら、後の後半は、相手が自分から倒れるようにするのである。

従って、相手が崩れたら、投げる方はそれ以上力を込めて投げる必要はなく、相手の倒れるのをちょっと手伝ったり、場合によっては(例えば、周りの人とぶつかりそうになったときなど)倒れるのを引き止めたりすればよいのである。すべての形(かた)でそうありたいが、この理合が分かりやすい稽古の形(かた)としては、一教の裏、入り身投げ、四方投げなどがある。これらは「わざ」の後半で、こちらで倒そうとしなくとも、相手が自分で倒れていき、満足して倒れてくれる。こうなると投げる方も、受けを取る方も気持ちがいいもので、お互いハッピーとなる。

技を掛けるときな、相手が自分から喜んで倒れるようにする。相手のやりたいようにしてやる。これが、相手も自分も満足する合気ではないだろうか。