【第869回】 形のない世界で

合気道は技を錬磨して精進していく。技が上達すれば技が効くようになるだけではなく、それまで見えなかった事が見えてくるし、分からなかった事が分かり、出来なかった事ができるようになる。逆に言えば、見えてきた程度、分かってきた程度、出来るようになった程度に技が上達したことになるわけである。例えば、『合気神髄』『武産合気』が分かる程度にしか技はつかえないし、技を見ればどれだけ『合気神髄』『武産合気』、つまり合気道を理解しているかが分かるものである。実際、技が多少上達していると実感するが、『合気神髄』『武産合気』も以前より大分理解できるようになっている。

相対で技を掛け合いながら稽古を続けているが、なかなか思うように上手くいかない。上手くいくために、問題を見つけ、それを解決しながら稽古をしているが、一つの問題が解決されるとまたすぐに新たな問題に遭遇するの繰り返しなのである。

半世紀以上も稽古をしているので、若い後輩などの生まれる前からやっているわけだから、後輩とは多少の実力の差がついていなければ恥ずかしいだろう。故に、後輩とは少なくとも二つの次元(世界)の差をつけたいと頑張ることにしている。例えば、後輩たちの腕力に対して腰腹の力、後輩たちの肉体主動の力に対して息主動(息で肉体を導く)であり、後輩が息主動で技を掛けてくれば、気の力をつかうということである。追ってくる後輩の上達は追われる側の2倍、3倍と速いので、後輩たちの二倍三倍の“努力”をしなければならないことになる。

しかし、この後輩の二倍三倍の“努力”は重要であるが、実行するのは難しい。若い頃なら稽古時間をそれまでの二倍三倍にすればいいが、年を取っているのでそのような肉体的な努力は不可能である。所謂、量的な努力では無理という事である。
量が駄目なら質となる。稽古の質を変えればいい。これを合気道の教えでは、肉体的な魄の稽古を精神的な魂の稽古に変えるという事である。勿論、魂の次元の稽古にすぐに入るのは難しいから、息主動の稽古、そして気の力による技づかいの稽古をしなければならない。
いづれにしても魄の力に対しては質で勝負をしなければならないことになる。
質に関して大事な事は“集中”である。若い頃は持続力、耐久力を重視するが、集中力は弱いように思う。年を取って来て持続力や耐久力は衰えるが集中力は養成できる。短時間でいい。一時間の稽古時間で3分間集中すればいいと有川定輝先生は言われていた。人間の真の集中力は精々3分間である。  相撲を見てもそれがわかる。年を取ってきたらゆっくりと悠々自適に稽古するようになるが、3分間だけ一つの事(技、課題)に集中すればいいだろう。
また、後輩との質的違いの稽古には、世の中には合気道に直接関係ないが大いに関係するものがあるので、万有万物が我師と思い学んでいく事である。若い内は、これはなかなか難しいものである。

前置きが長くなったが、今回のテーマは、こちらはある程度力がつき、法則も身につけ、理合いの技づかい、体づかいができるようになったと思っているにもかかわらず、強い腕力に体が上手く動かず、技にならなくなってしまったということである。
今回は、この問題と解決法を研究してみたいと思う。

これまで分かった、手を強く持たれた時に動かなくなる原因は、しっかり持たれている手を動かそうと手を動かすことである。手に気と力を満たし、その手を動かそうとするということである。手の芯の骨や肉で技を掛けようとするということである。骨や肉を動かすと相手は必ず反応し、そうはさせまいと力を込めてくるから手は動かないか、動きづらくなるわけである。

従って、この問題を解決するためには、骨や肉で技を掛けないという事になる。それではどうすればいいのかというと、これも大先生は教えて下さっている。
「合気道は形のない世界で和合しなければだめです。形を出してからではおそいのです。吐く息の中に自分自身がいるのです。吐く息の中に自分がいるのです」

骨や肉といった形のあるものではなく、形のないもので相手と和合し技をかけるのである。形のない世界とは目に見えない次元である。また、形を出してからでは遅いとは、目に見える魄(骨や筋肉)をつかうのでは遅いということであり、これより早くつかうもの(形のないもの)があるということである。形のないものとは、例えば、息である。先ず息で体をつかい、技を掛けるのである。息で自分の体(骨や肉)を導き、相手と和合し、そして技を掛けるのである。息の他にも気や魂がある。これでやれば相手にしっかり持たれる手でも上手くつかえるようになるはずである。そうなるように稽古をすればいい。