【第869回】 天の気と地の気の交流で

合気道の技は手で掛ける。掴まれた肩や胸でも技を掛けるが、手の延長であるから手をつかう事になるから、手で掛ける事になると考える。
しかし、手で技を掛け続けているわけだが、なかなか上手くつかえない。はじめは手を、諸手取呼吸法や木刀の素振り等などで強力な手をつくりやるが、手と体がまとまらなかったり手が思う方向にいかない。そこで腹と手を結び腹で手をつかって技をかける事になる。前より強い力が出るが、それに対応するかのように相手も思い切り力を込めて掴んだり、打ってくるようになる。そこで足を左右陰陽につかい、腹を十字に返して手をつかうようになる。更に、フトマニ古事記の息づかい、そして最近では仙骨をつかい、体の表に生み出す神(気、魂)で手をつかうようになったところである。
自分ではやれることはやったつもりではあるが、まだ、手を上手くつかう事ができないのである。つまり、満足できないのである。手のつかい方に何かが欠けているのである。

かって拝見した大先生の手は、技をつかう際でも、神楽舞でも自然で美しかったが、押そうが、引こうが盤石の強さも秘めていた事が思い出される。
この手を求めて、武道とは直接関係のない多くの綺麗どころが大先生に学びにきたのだと確信している。
また、私がまだ白帯か初段を取りたての時(大先生はご健在)に、アメリカからダンサーが稽古に来たので、担当の有川定輝先生から、初めてなので手解きをするように言われ、後受け身や転換法等の20分ほど一緒に稽古をしたことがある。体は大きく、筋肉隆々である上に、聞くとダンサーというのだが、彼は何故、合気道をやりにきたのかよく分からなかった。が、今、ダンサーや綺麗どころが、何故合気道に訪れたが分かった。

それは後で説明することにあるが、まずは前にもどる。手が上手く、満足できない理由が分かったことであり、何がどう分かったかという事である。
手は強力で、相手と結び、制し、導くことが出来るようになるのだが、まだ、人的であるということである。フトマニ古事記でもやっているのだが、まだ不十分であるという事なのである。人的と云う事は、不自然であるということであり、不完全ということでもある。これを自然で完全にしなければならないわけである。

この問題解決は天の気と地の気であり、その天の気と地の気の交流であったのである。
手を上げたり、持たせるために前に出す際、これまで手を人的に動かしていた。相手はあまりいい気持にならないから、無意識のうちに心的に、肉体的に反抗することになる。相手との一体化が損なわれ、合気道の目標に反するわけで、これが手の問題であったわけである。

この問題を解決するためにどうすればいいのかという事になる。手を天の気と地の気でつかうのである。天の気に従って上げると地の気がその上がる手を地に下げようと引っ張る。手を上げるということは、天の気と地の気の天と地の引力の引き合いということなのである。手を上げてもそこには地への引力も働いているから、相手との接点には地の引力と己の体重が掛かっており、いつでも相手を制し、導く事ができるわけである。
尚、天の気と地の気であるが、地の気は、物が地に落ちる、手も何もしなければ下におりる等でわかるだろうが、天の気は分かり難いかも知れない。分かるという事は実感することだと考えるので難しいと言ったわけであるが、分かり易い例があるだろう。樹木や草木を見ればいい。彼らはみな天に向かって伸びている。これが天の気だと思う。まずは天の気があることを信じることである。そして天の気に己の気を合わせ、動くのである。”ア“の言霊で天の気と結ぶようなのでやっている。

世界は、天の気と地の気の引力と引力との交流によって収められていると、合気道は次のように教えている。
「我々の上には神があると思わねばならない。なぜならば長い間仕組んで出来上がった天や地、そこにある引力 ――これは天の気がずっと下がってくる――天地の妙精力、つまり引力と引力との交流によって世界が収められる。」(合気神髄 P.58)
合気道の手のつかい方も天の気と地の気の交流で収めなければならないことになるはずである。