【第868回】 剛柔流にもどって

合気道を長年修業していて大分わかったつもりになっているが、まだまだ修行の足りなさを痛感している。正面打ち一教と呼吸法を中心に稽古してきたので、大分様になり、これでいいだろうと思った瞬間、まだまだであることを思い知らされるのである。こちらに力がついて技と体をつかうようになると、不思議と相手はそれに対応して力一杯掴んだり、打ったりしてくるようになるものである。この力を制し、捌くのは容易ではない。この攻撃を捌くには相手の2,3倍の力がなければならない。所謂、魄の力に対して魄の力で対応するからである。勿論この魄の力も必要であるから、まずはこの魄力の稽古を自分の限界までやるべきである。限界がどこかというと、自分にそれ以上の魄の力が出ない事を自覚し、そしてその腕力以上の力があるはずだ、そしてそれを会得しなければならないと思う時であろう。

腕力とは肉体的な力である。言うなれば、荒牛や暴れイノシシのような肉体の本能から出る力である。この魄力にかえて、肉体から出る力を他の何かによって導くことで出る力を求める事になる。気の力である。気によって体をつかい、技を生んでいくのである。これを大先生は、真の合気道、武産合気といわれているから、これまでの合気道から真の合気道に移行することになる。
気が生まれ、技につかえるようになると、技は気剛柔流でつかえるようになる。気によって体を剛柔流につかうのである。つかえるようにするためにまず剛の鍛練がいいだろう。気を入れて体を岩石のように剛にして技を生むのである。特に、手を剛にしてつかうのがいい。多少の相手の魄力を制する事ができるし、隙のない動きになり、一教から二教への返し、また、二教での手首返しも切れ目なくできるようになる。これまでの二教では相手に返されたり頑張られたりしたが、その危険性はなくなり、力一杯で受けを取る相手も納得する力になるようである。

剛の体づかい、剛の技づかいは以前(腕力時代)もやっていたが、いま思えばよく分かっておらず、不十分だったし、上手く出来るわけがなかったと思う。何故ならば、気がつかえなければ体を剛柔流でつかうことは出来ないと思うからである。
剛の体づかい、技づかいができるようになれば、流ができるようである。剛の体や柔の体が土台となり、気で相手と接して技をつかうのである。気で相手をくっつけて、気で導くのである。剛と流ができれば柔はできるはずである。(しかし、これは間違いである事が後でわかることになる。) すべての技(形)や動作を剛でやり、流でやり、柔でやればいいし、できるようにしなければならない。
また、徒手だけでなく剣や杖も剛と柔と流で振れなければならない。

更に、気にも剛柔流があるから、剛の気、流の気、柔の気と区別してつかえるようにしなければならないだろう。
体と技を剛柔流、そして気も剛柔流でつかえるようになれば、相手の多少強い魄力に対応する事ができるようになるはずである。