【第867回】 古事記の実行が合気

合気道は古典の古事記の実行であると大先生は次のように言われている。
「無性と有性の大原則ことごとく宇宙の営みの元を生み出した。それが合気の根元となる。つまり、古典の古事記の実行が合気である。」(合気神髄P19)
しかし、古事記の実行をどのようにすればいいのかが難しいので研究しており、その幾つかが分かり、技に取り入れることが出来るようになったようなので記す。

まず、大先生は「皇祖皇宗のご遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。フトマニ古事記とは神代からの歴史であり宇宙建国の生命線であり、我が国はこれを憲法としている」(武産 p.77」と教えておられるから、古事記とフトマニ(布斗麻邇御霊)で技を生み出さなければならないことになり、古事記とフトマニには密接な関係があることになる。
その関係は、古事記の神生みと鳥生みが布斗麻邇御霊の形で表されていることからも明白である。例えば、古事記には「古事記曰天地初発之時於高天原成神御名天之御中主神云々・・・」とあり、そしてその天之御中主神の布斗麻邇御霊はとしている。また、古事記には「故二柱神立天浮橋而指下其沼矛以書者塩許袁呂許袁呂邇書鳴而引揚時自其矛末無落塩累積成島是淤能碁呂島・・」とあるが、布斗麻邇御霊はこれをで表している。つまり、古事記と布斗麻邇御霊には密接は関係があることは明白である。また、布斗麻邇御霊で技をつかわなければならないわけだから、古事記の実行をしなければならないのは明白であるということである。
この古事記とフトマニの関係については「第858回 フトマニ古事記と合気の技」「第861回 神生み島生み」で書いているので、詳細は省く。

次に古事記の実行には、具体的にどのようなものがあるのかである。これまで多少見つけることができたので書いてみるが、これは非常に大事な事であり、この古事記の実行を無視しては技にならないことがわかる。大先生のこの教えの重要性を実感する次第である。
例えば、「合気道の体をつくるの『第866回 手鏡に写し取る』」に書いた“鏡”である。この手鏡で技をつかうと上手くいくのである。抑えられた手でも、打ち下ろされた手に対しても相手を鏡で写すように手をつかうと強力な力が出るのである。坐技呼吸法などでは不可欠であるだろう。
この鏡に関して、古事記では次のように記されている。
「暗闇から光を取り戻すため、古事記では、天児屋根神が太祝詞(フトノリト)を唱え、天照大神の偉大さや美しさを目一杯褒め上げた。 天照大神は、これを聞いて大いに喜んだ。しかし岩戸から出てはもらえなかった。そこで、天宇津女命が舞台の上に躍り出て舞を舞い始め、神懸かり状態になる。神々は大いに笑った。神々の笑いを不審に思われた天照大御神は、岩戸を細めに開く、隠れ待ち構えていた手力男命が岩戸に手を差し入れて戸を開き、同時に、を天照大御神の前に差し出す。この時、すかさず天太玉命が、結界としての注連縄を天照大御神の後方に張った。こうして再び日の神たる天照大御神は岩戸の中に帰ることができず、太陽の光を取り戻したのである。」
この天照大御神の前に差し出した鏡が手鏡となるわけで、手鏡をつかえば強力な力が出るし、また、相手の後ろに結界がはられ身動きができなくなるということであると思うし、実感できる。古事記の実行である。

次に、「第858回 フトマニ古事記と合気の技」で記した伊邪那岐神と伊邪那美神の島生みのまぐわいの段である。伊邪那美の神が先に言葉を発したことによってヒルコが生まれた話である。つまり、
伊邪那岐命(イザナギノミコト)は言いました。
「それでは、私とあなたでこの天御柱(アメノミハシラ)を互いに反対に回って会って、まぐわいましょう」。そう約束して「あなたは右回りに、私は左回りに行きましょう」と回ったら、伊邪那美命(イザナミノミコト)が先に「あぁ、なんてイイ男なんだろう!」と言い、その後に伊邪那岐命(イザナギノミコト)が「あぁ、なんてイイ女なんだろう!」と言いいました。
伊邪那岐命(イザナギノミコト)は言い終えた後で「女が先に話しかけるなんて不吉だ」と言いました。
そして二柱が床で交わって作った子は水蛭子(ヒルコ)でした。

つまり、この古事記の教えの実行は、先ず、男が、そして次に女が動けということである。布斗麻邇御霊ではが先で、その次にである。正面打ち一教も、片手取り呼吸法でも横の伊邪那岐 、そして縦に伊邪那美 とつかうのである。この順序で動かなければいい技にならず、ヒルコの技になってしまうのである。

この二つを古事記の実行で技に取り入れているが、まだまだ沢山取り入れて実行しなければならないと思っている。