【第865回】 ナギナミ二尊の御振舞に神習う

合気道を始めてから早や半世紀以上になるわけだが、どうしても上手く出来なかった技(形)があった。それは「坐技呼吸法」である。
あーでもない、こうでもないといろいろ試し、試行錯誤を繰り返していたのだが、どうしても満足できないでいた。どこが不味いのか、どうすればいいのかをずーと考えて来たわけである。よくぞ半世紀以上にわたって試行錯誤を繰り返してこれたと我ながら感心する。
飽きもせず、諦めもしないで続けて来られたのにはそれなりの理由があったことが後でわかってくる。それは、試行錯誤を繰り返している内に、無意識で徐々に上達の道に近づき、そしてその道を這い上がっていたということである。相手を上手く倒すことが出来なくとも、手先と腹が結んだり、手が折れ曲がらなくなったり、体が陰陽で動くようになったり、腹が十字でかえるようになったり、息で体と技をつかうように等が身に付いていったのである。これだけでは「坐技呼吸法」を上手く掛けることができなかったわけであるが、これらの事が身に付き、これが出来るようなった段階で大いに役立つのである。つまり、これらの積み重ねがなければ、「坐技呼吸法」は出来なかったという事である。

最近ようやく、真の合気道の稽古というものの必要性を実感するようになり、大先生の教えをあらためて研究したのである。
大先生は、「宇内のすべての運化にもとづいて稽古を続行しなければならない。これがみそぎの真意義である。火水の交流たるナギナミ二尊の奇しびなる御振舞いに神習ってゆくみそぎの本筋であって、武産合気していく。」(武産合気p.101)と教えておられる事がわかったのである。
以前にも、この教えには出会って知っていたが、自分のものになっていなかっただ。今回は、この教えで「坐技呼吸法」に挑戦してみたのである。

宇内のすべての運化の布斗麻邇御霊にもとづいて技をつかっていかなければならない。とりわけ、その内でも、伊邪那岐神と伊邪那美神の水火の交流(御振舞)に習って技をつかうことが大事であるということだと考え「坐技呼吸法」をやったのである。
相手に手首を掴ませたら息を吐きながらで腹を横に拡げ、更に息を吐きながらで手先を相手の中心(顔)に向けて進めるのである。この際の言霊は“う声”である。 手先には腰(仙骨)からの表(陽)の力が出るので強力な力になる。これまでの手の力、腕力ではない力である。この力なら多少の力持ちや体力がある相手にも対応できると実感する。そしてこれが合気道で追及している力であると感得した次第である。

このナギナミ二尊の御振舞いに神習って「坐技呼吸法」が出来るようになったので、他の技、片手取り呼吸法、諸手取呼吸法、片手取り四方投げ、正面打ち一教などでもやってみると、これまでと違って、上手く技もきまり、これこそが合気の技であると実感できるようになった。
今後は、ナギナミ二尊の御振舞いを中心に、宇内の運化にもとづいて技をつかう稽古を続けていかなければならないと痛感した次第である。