【第864回】 温泉と合気道

年を取ってきたせいか、最近よく温泉に行く。月に1,2度、近くの温泉にいっている。昔から、温泉は好きで、お金と時間と心の余裕があれば行っていた。外国で数年間生活をしていたが、やりたかった最大の事は日本の温泉に入る事だった。

先日、家から2時間ほどの所にある温泉に入って湯船の中で、何故、温泉に入りたくなるのかを考えてみた。その答えのキーワードは“解放”である。
家にも風呂はあるし、自由に、いつでも好きなように入る事ができるし、また、電車に乗る時間やお金も必要ないのに、何故、わざわざ遠くのお風呂に入りに行くかということである。その答えが解放のためであると思いついたのである。
家の風呂桶やバスルームは狭く、手足を思う存分伸ばすことは難しい。手足だけでなく、気持ちもバスタブやバスルームに圧迫される。それに対して、温泉では手足を好きなだけ伸ばせるし、広く天井が高い温泉では気持ちも解放する。窓から庭の木々や空が見えれば、気持ちは更に大きく解放される。ましてや、露天風呂に入れば、遠くに山が見えたり、頭上には青空が見えるので気持ちはますます解放される。言うなれば、自然や天地と一体化するということである。
このような温泉、露天風呂から家の風呂を見ると、体も心も窮屈であると感じることになり、偶にはその窮屈さから解放されたいと思うわけである。

温泉には更なる解放と陽気を感じられる特徴がある。温泉に入ると浴槽の淵や岩に頭をのせて手足を伸ばしたくなるが、これは背・腰側に気・力で張り、腹側を緩めることである。家の風呂では腹側が張り、背中側が緩んでいるので逆になる。温泉では背中側の陽の気・力が働き、お腹側の陰の気・力がお休みとなるので気持ちよくなり、陽気を感じ、解放感が持てるのだと感得する。

この解放という感覚は人間の本能かもしれないが、合気道からのものであると思う。合気道を修業してきたお蔭で、この解放を求める自分を知ったし、解放にどういう意味があるのかが分かったのである。
合気道は日常生活とは別次元にある。日常生活では学校にしろ、会社にしろ常に窮屈な壁があり、身も心も縮こまっている。この体と心の縮こまりを合気道の技と体の稽古でほぐし、解放しているのである。はじめは、己の体と心の壁を破り、次に稽古相手との壁を破り、そして天地との壁を破り、己を開放、つまり自由にするということである。

合気道をつくられた大先生は、合気道は生活の中に生かされなければならないと教えておられる。生活に密着できなければ価値がないということである。合気道を知らない人に、技がどうのこうのといっても興味を示さないが、自分の生活に関係あれば耳を傾けるものである。
温泉の効用のように、日常生活における合気道の効用も示せなければいけないと思う。