【第864回】 知とイメージと感覚

合気道は技を練って精進していく武道であるが、なかなか技は上達しない。大先生とまでといわなくとも、大先生の直弟子であった先生方と比べても寂しいかぎりである。しかし、大先生、先生方のレベルに達するのは無理としても、少しでも近づきたいと希望は持っているし、努力をしているつもりである。お陰でいろいろわかってくる。何故、上達が難しいのか、どうすれば上達できるようになるのか等である。

まず、大先生や直弟子先生方のような上達が何故、我々には難しいのかである。思うに、まず時代が違う事である。時代が違う事によって生きる環境が違い、必要な事(価値観)も変わったことである。例えば、当時は今のように電車や車が普及しておらず、歩く事が基本であったし、また、クレーンやブルドーザーなどの機械はなく、肉体で重い物を持ち上げたり運搬しなければならなかったわけだから、社会は強靭な肉体を評価していた。それに比べ、今はボタン一つ押せば、どんなに重い物でも移動できる、何処へでも移動できる。力はそれほど必要ない時代である。強靭な肉体を評価するのは、オリンピックの重量挙げとかボディービル大会などの一部の社会である。
 
そのような昔の社会での稽古と現代の稽古では、稽古の目標と稽古法が変わってくることになり、昔の人の技のレベルに達するのは難しいと考えている。勿論、不可能ではない。昔の人と同じよう、それ以上に鍛えて稽古をすればいいだけの話しである。

それでは昔の人のレベルに近づくためには、我々現代人はどうすればいいのか、どのような稽古をすればいいのかということになる。
今回は、その答えを一つ見つけたので記することにする。
そのキーワード(鍵)は「知とイメージと感覚」である。
技を練る稽古は、ただ合気道の技(形)を繰り替えしても上手くならない。繰り返して稽古することは必要条件だが、そこには「知とイメージと感覚」が必要であるという事であるが、それを具体的に説明する。今、挑戦中の片手取り呼吸法で説明してみる。


まず、知識が必要である。今で言えば情報である。これが無ければ先に進めない。例えば、片手取り呼吸法はフトマニ古事記の布斗麻邇御霊の動きでつかわなければならないことである。で技と体と息をつかってやるということである。そしてこの動きを「アオウエイ」の親音の言霊に合わせてやるのである。布斗麻邇御霊やアオウエイの言靈の知が無ければならないという事である。

イメージ
次にイメージを持つことである。自分が何を目指し、どのような技をつかいたいかというイメージである。イメージが弱かったり、なければ己の進みたい方向がわからないわけだから上達はないことになる。
イメージを持つためには、自分が信じる最高のイメージを身に着けなければならない。そのためには最高の合気道の技のイメージ、また、合気道以外の最高なイメージも身に着けなければならない。合気道の最高と思う先生の技、最高の絵画、書、彫刻、芸能、音楽、そして自然界等などを見たり聞いたりする事である。

感覚
最後に感覚である。己の感覚を研ぎ澄ますことも大事であるが、自分の感覚を信じること、自分の感覚に敬意を表し、感謝することである。
片手取り呼吸法をやると、ときに相手も頑張ってくるので、持たせた手が思うように動かせないことになる。その問題を解決するため、これまで腹をつかう、体を陰陽十字につかう、仙骨をつかう等いろいろやってきた。
勿論、布斗麻邇御霊とアオウエイの言霊もつかってやった。しかし、今思えば、これは表面的に只なぞったようなつかい方であった。それが分かったのは「うの言霊」でののところである。“う”と息を吐きながらは腹中を横に拡げ、そして縦に伸ばすのだが、これまで感じていなかった腹中の○を感じるようになったのである。○が気で満ちている感じである。そしてが実感できるようになったのである。強力な力も出るようだ。
この感覚で、この技づかいは間違いないと実感したわけである。
その技が正しいのか、間違っていないのか、そしてどうすればいいのかは己の感覚であるようだ。

「知とイメージと感覚」こそが、昔の人の技のレベルに近づく鍵であると考える。